第三章

ふと、我に返るとあたしは保健室のベッドの上にいた。一瞬、自分の置かれている状況が理解できなかった。
しばらくすると、混乱した頭から断片的に記憶がよみがえってくる。
閉鎖空間から戻った後、屋上で泣き叫んでいたあたしを見回りに来た教師が見つけ、保健室まで連れて来たのだ。
授業中にもかかわらず、屋上にいたあたしを咎めもせずに保健室に連れてきたことから、
そのときのあたしの様子が、とても尋常ではなかっただろうことは、容易に想像できた。
時計を確認すると、もう授業はすべて終了しており、普段であれば部室で過ごしている時間だった。
あたしはベッドから起き上がるとよろよろとした足取りで部室に向かった。
「もう大丈夫なの、涼宮さん。もう少し休んでいったほうがいいんじゃない」
あたしの様子を見て心配したのか保険の先生が声をかけてくれた。あたしはその呼びかけに返事をせずに保健室を後にした。
部室に行く途中、あたしの頭の中に、さっきの屋上での記憶と共に、色々な考えが浮かんでは消えていく。
いま、あたしは屋上で起こったことが現実であると確信している。普段であれば到底信じることのできない現実にもかかわらず、
なぜか自信をもって現実であると断言できた。
一方で、あたしは屋上でのことを現実では無く夢であったと信じ込もうとしていた。
あんな非現実的なことが目の前で起こるはずが無いと。このままあたしが部室に行けば、普段と同じようにみんなが迎えてくれると。
部室の前まで来ると、一瞬躊躇して、ドアを開いた。有希も、みくるちゃんも、古泉君も、そしてキョンもそこにはいなかった。
あたしは団長席の椅子に座り、みんなが来るのを待った。当然、誰も来ないことはあたしが一番よく知っている。
目から涙が溢れ出て、団長机にポトポトと落ちるのがわかった。それでもあたしは藁にもすがるような思いでみんなを待ちつづけた。
気が付くと、とっくに日が暮れて、辺りが暗くなっていた。いつの間にか眠っていたようだ。
予想通り誰も来なかったことが、あたしの絶望感をいっそう強くする。2~3日すれば4人が行方不明になったことが問題になるだろう。
しかし、あたしにとってそんなことはほんの些細な問題に過ぎない。あたしは明日からひとりなのだ。
キョンやみんなを殺してしまった罪悪感と共に、中学時代には想像もしなかった孤独に対する恐怖があたしを襲う。
キョンはあたしの犯した罪をすべて引き受けて死ぬと言ってくれた。だからお前は生きろと。
しかし、そんな簡単に割り切れるものではない。誰かに、誰かに聞いて欲しい。あたしのいまの苦しみを。
でも、いまのあたしには相談する相手が誰もいない。有希も、みくるちゃんも、古泉君も、キョンも。
みんなに会いたい。キョンに、キョンに会いたい。せめて、キョンひとりでも残ってくれていれば、もっと救われたのに………
あたしにとって、キョンに与えられたこの罰は、あたしがあの屋上で死んでしまうことよりも、ずっと残酷だった。キョンが憎い。
いなくなってもなお、あたしを苦しめるキョンが………あたしをこんなに苦しめるキョンが憎い、でも会いたい。

そんな矛盾した感情を抱きながら、あたしが帰ろうと、鞄を手にした時
ガチャリ
ドアが開いて誰かが入ってきた。
「誰!」
あたしが入ってきた人物を確かめようと、振り向いた瞬間。





あたしは自宅のベッドで目を覚ました。
あたしはベッドから飛び起きると、急いで階下に下りて行き、新聞を見て、今日の日付を確認した。
いままでの出来事がすべて夢かもしれないと思ったからだ。しかし、現実は非情だった。
あの日、あたしはいつのまにか自宅に帰ってきていたのだ。断片の記憶すら存在しないが、あんな出来事があった後だから仕方が無い。
でも、もしかしたらキョンが何事も無かったかのように登校してくるかもしれない。
だって、あの日確かに、日が暮れて暗くなった部室に、誰かが入ってきたはずだから………
もちろん普通に考えれば夢の中の出来事、そう考えるのが自然だわ。でも、この期待に一縷の望みを託すことにする。
あたしは急いで身支度を整えると、朝食もとらずに、家を出て学校に向かった。
まだ、登校している学生はひとりもいない。しかし、そんなことは、いまのあたしにとってまったく気にもならなかった。
普段ならうんざりするような上り坂を一気に駆け上がり、教室へと向かう。
あたしが教室にたどり着いたとき、当然だが、室内には誰もいなかった。
あたしは自分の席に着席し、あたしの前の席をじっと見つめながら、キョンが登校してくるのを待っていた。
しばらくすると、ひとり、またひとりと教室にクラスメートが入って来た。しかし、誰もあたしにあいさつすらしてくれない。
あらためて、あたしがクラスで孤立していることを実感した。
あたしにとって長い、長い時間が過ぎ、始業の予鈴が鳴った。谷口があたしの神経を逆撫でするように、キョンの机を見て
「あれ~、キョン、今日は休みなのか」
と言うのが聞こえた。それを聞いて国木田が
「へえ~、珍しいね。何かあったのかなあ」
とのんきに答えている。

始業のチャイムが鳴り、園部が入ってきたことで、あたしの期待は脆くも打ち砕かれることになった。
授業が始まったが、あたしにはもう授業を受けるような余裕はどこにも無かった。俯いたまま、声を立てずに、ずっと泣いていた。
そんなあたしの姿を見て心配になったのか、園部があたしに近づき声をかけてきた。
「どうした涼宮、なにかあったのか」
それを聞いて谷口が
「キョンが来てないから元気がないんですよ」
とからかうように言った。あたしが睨みつけてやると、谷口は慌ててあたしから目を逸らした。
あたしは園部に保健室に行くように促され、教室を後にした。しかし、あたしの足は保健室には向かわず、文芸部室へと歩を進めた。
なぜこのとき、あたしは文芸部室に向かったのだろうか。ひとりになりたかったから。何かにすがりたかったから。
せめて、かつてみんながいた文芸部室でいまの絶望に満ちた心を癒したいと思ったから。
どれもが正解で、どれもが不正解のような気がする。そんな感情に導かれながら、文芸部室の前まで来て、ドアを開けると―――――

そこにはキョンの姿があった。

「キョ、キョン? キョンよね」
キョンはちょっと照れくさそうにあたしの方に微笑みかけた。
あれだけクサイセリフを言って別れたのだから、キョンにしてみれば、かなり気まずかったのかもしれない。
でも、このときのあたしはそのことをからかおうとは露ほどにも思わなかった。
あたしはキョンの胸に飛び込むと、顔をあげてキョンを睨みつけて叫んだ。
「あ、あ、あたしが、あたしが、い、いままでどんな思いで…どれだけあんたのことを心配したと思ってんのよ! 
勝手なことばかり言って、勝手にあたしの前からいなくなるなああああ!! いい! あんたはずっと、ずうっっっと、
ずうっっっっっっとあたしの雑用係なんだからね! 勝手にいなくなるなんて絶っっっ対許さないんだから!!」 
そこまで言うと、あたしは感極まって、キョンの胸に顔をうずめて思いっきり泣いた。
「うわああああああああぁぁぁっ! ああああああぁぁっ!」
パチッ パチッ パチッ
周囲から拍手の音が聞こえた。あたしが顔をあげて周囲を見回すと、有希やみくるちゃん、古泉君がそこにいた。
「みんな………」

そのとき、あたしはハッとあることに気がついた。あたしが屋上で見た出来事は夢だったのではないかと。
そう考えると、急に羞恥心がこみ上げてきて、キョンから離れて俯いた。もしあれが夢だったとしたら、
あたしはトンチンカンなことを叫びながら、キョンに抱きついて泣いていたことになる。それもみんなの前で……
顔から火が吹きそうなくらい恥ずかしいのを我慢して、あたしは顔をあげてキョンに尋ねた。
どうしても、どうしてもいま、確認しておきたいことがあったからだ。
「キョン、これからもみんなずっと一緒だよね」
あたしの言葉を聞いてキョンは顔を曇らせた。周りの三人もあたしから視線を逸らすのがわかった。
「え、キョン、どうしたの。返事してよ……」
唐突に不安が込み上げてくる。屋上での出来事、キョンが引き金を引いた光景が脳裏をかすめる。
あたしはキョンのブレザーを引っ張りながら叫んだ。
「なんで、なんで返事してくれないのよ! また、あたしをひとりにするつもりなの! 答えなさいよ! あたしは、あたしは……」
「涼宮さん。落ち着いて」
みくるちゃんがあたしの肩に手を置いて、なだめるように声をかけてきた。
「キョン君はずっと涼宮さんと一緒です。この先ずっと……」
「キョンは、じゃあ、みくるちゃんは、有希や古泉君はどうなの」
あたしはキョンのブレザーを掴んだまま、顔をみくるちゃんの方に向けて問い掛けた。みくるちゃんは悲しげな顔で視線を逸らす。
「わたしたちは、もう、涼宮さんとはお別れです」
「そんな………」
あたしはキョンのブレザーを放して呆然と立ち尽くす。みくるちゃん、有希、古泉君を見回しながら、さらに問い掛けた。
「あたしのせいなの? あたしがあの屋上であんたたちを……。だから、だから……」
「涼宮さん、落ち着いてください。これは涼宮さんの責任ではありません」
「じゃあ、なんでよ! なんでみんなと別れなきゃいけないの? 教えてよ! どんなに辛い事実でもあたしは受け入れるわ! 
だから、だからもう隠し事はしないで! あたしだけ何も知らないまま、みんなと別れるなんて、そんなの耐えられないわ!」
「それは、あなたが閉鎖空間に赴く前にいた世界と、閉鎖空間から帰還した後にいる世界がまったく別の世界だから」
有希が突然あたしの疑問に答えた。でも、あたしにはよく意味が理解できなかった。だって、まったく別世界だと言われても、
SOS団の4人がいなくなったこと以外変わりのない世界だし、その4人もいまあたしの目の前にいるわけだし。

あたしが有希の方に顔を向けて、思い浮かんだ疑問を口にしようとすると、古泉君が有希の説明を補足した。
「つまりわかりやすく言うとこういうことです。いままで涼宮さんがいた世界は、涼宮さんの願望が創造した世界でした。
そこでは涼宮さんが望むように我々のような超常の者が存在することができたのです。
しかし、いま、涼宮さんのいる世界は涼宮さんの理性や常識の支配する世界です。
ここでは我々のような者は存在することを許されないのです。それが別れざるを得ない理由です」
「全然わからないわ。どうしてそんな世界があるのかもわからないし、あんたたちが存在できない理由もわからない。
そんな説明じゃ納得できないわよ」
「それを説明するためには5年ほど前に遡って話をする必要がありますが」
「いい、説明して。いま聞いておかないと、きっと後悔すると思うから」
「わかりました」
そう言って、古泉君は有希の方に視線を移した。有希がいつもの平坦な声でしゃべり始める。
「5年前、あなたはそれまであった世界に不満を抱き、我々のような超常の者が存在するように世界を改変した。そしてそのときより
我々や、我々の存在の基盤となる情報統合思念体やSTC理論、閉鎖空間、機関等はあなたによってこの世界に創造された。
だが、中学生だったあなたは宇宙人や未来人、超能力者、異世界人に会いたいと望んだにも関わらず、我々に遭遇することはできなかった。
それはあなたの中の理性や常識が我々のような存在を否定し、我々との遭遇を未然に防いでいたから」
「じゃあ、有希やみくるちゃんや古泉君が一般人でないのは、あたしがそう願ったからってこと」
「そう」
あらためて自分の持っている能力の恐ろしさを実感した。あたしが有希の説明を聞いて呆然としていると、古泉君が詳細を説明し始めた。
「しかもそれだけではないのです。あなたは超常との遭遇以外にも色々なことを識閾下で望んでいたのです」
「どういうこと」
「例えば、世界を自分の思い通りにできるような能力を持ちたいとあなたは願いました。
そのため、長門さんは宇宙人の特性と同時に万能な能力を持って創造されたのです」
「え、じゃあ有希は…………」
あたしは有希の方を見ると、有希はかすかにうなずいたような感じがした。
「同様に、みんなから好かれる女の子になりたいと願ったことで、
朝比奈さんは未来人としての特性と誰にでも好かれるキャラクターをもって創造され、
自分に付き従ってくれる異性が欲しいと願ったことで、超能力者の特性とこのような性格を持つ僕が創られたのです」

「まって!」
あたしは古泉くんの説明を途中で静止する。あたしの心の中に不安がこみ上げてきたからだ。
小さくつぶやくような声で、古泉君に尋ねる。
「キョンも………みんなと……同じように……」
「そう、それが最も重要な部分なのです」
古泉君はそう言うと、有希の方に視線をやって、説明を続けるように促した。
「あなたは自分の望みが叶わないことに失望し、高校入学時に識閾下でまた、ひとつの決断を下した。
それは、高校生になる機会に、いままでの生活をあらため普通に生きること。
そして我侭な自分を受け入れてくれるような恋人が現れることを切望した」
有希のこの言葉にあたしは愕然とした。
もし、この話が真実であれば、いくらキョンがあたしのことを好きだと言ってくれても意味が無い。
キョンのあたしに対する好意すらも、あたしが創造した産物に過ぎないのだから………
そんなあたしの考えを読み取ったのか、古泉君があたしに微笑みかけてくる。
「涼宮さん、いまあなたが考えていることはだいたい想像がつきます。ですが、話はそう単純ではないのです」
あたしが古泉君の方を向くと、古泉君は前髪を指ではじいて説明を始める。
「最後の恋人だけは願望の世界では叶えるできなかったのです。なぜなら、恋人とは自分の願望の現身でも、
自分に従順なだけの異性でも無いのです。確固たる自分の意志を持ち、時には価値観さえも違えることになるかもしれない存在を
願望の世界では創造し得なかったのです」
「じゃあキョンは、キョンはいったい何者なの」
あたしが古泉君に詰め寄るのを眺めながら、淡々と有希が説明を続ける。
「あなたの恋人を願望の世界は創造できなかった。そのため、あなたは5年前に遡り、
世界をふたつに分けることで、世界改変が生じていない世界を新しく創造した。
その世界は、あなたが創造主でありながら、あなたの能力の干渉を受けない常識と理性が支配する世界。
彼はそこから、あなたの恋人として選ばれ、こちらの世界に呼ばれた異世界人」
「だから、涼宮さんの心配は杞憂に過ぎません。この世界で唯ひとり彼だけが涼宮さんの能力の影響を受けないのです。
だから、彼の好意は涼宮さんの創造の産物などではなく、彼の本当の感情なのです」
「しかし、あなたは識閾下での決断とは裏腹に超常の存在を探すとクラスで宣言してしまった。言葉にしてしまったことにより、
わたしや朝比奈みくる、古泉一樹そして彼が一堂に会してしまい、SOS団が創設された」

あたしは古泉君と有希の説明を聞いて、高校入学当時に自分が置かれていた状況をようやく理解することができた。
そしてなにより、キョンの好意が真実のものだという古泉君の言葉があたしを安心させた。
しかし、まだ疑問がある。なぜ、みんなとの別れの時期が唐突に訪れたのか。
「それは、わたしの卒業式が近づいたからです」
みくるちゃんがあたしの疑問を予想していたかのように答えた。
「なによそれ、答えになってないわ。卒業したってSOS団の活動は続けられるし、別れる意味がわからないわ」
あたしがちょっと声を荒げてそう言うと、みくるちゃんは少し困ったような表情で別れなければならない理由を語りだした。
「わたしたちとキョン君はまったく異なる、お互いがお互いを否定しあう存在なの。
それでも、わたしたちがキョン君と一緒にいられたのは、涼宮さんの心の中に不思議を求める願望と、
それを否定する常識が同時に存在していたからなの。
でも、わたしの卒業式が近づいたことで、どちらかを選択しなければならないことを、涼宮さん自身が無意識のうちに悟ってしまった。
そのことが、わたしや長門さん、古泉君が暴走するきっかけになって、涼宮さんに選択を迫ることになったのよ」
あたしは唖然としてみくるちゃんの顔を眺めていた。あの屋上の出来事にそんな意味が込められていたなんて………
「でも、涼宮さんはもう決断を下したはずです。あの屋上で。涼宮さんはわたしたちと願望の世界で思いのままに生きていくことより、
キョン君と一緒に平凡な人生を歩んでいくことを選んだはずです」
あたしはキョンの方に視線を向けた。キョンは腕組みをしながら憤然とした面持ちで不満を語りだした。
「俺は納得してないぞ。よく考えてみろ。俺達はこの2年間ずっとSOS団の仲間として過ごしてきたんだ。
2年間、俺はお前達のことを心の通い合う本当の親友だと思っていた。いや、信じていた。
なのにモラトリアムだかなんだか知らないが、仕方が無いからお別れです、なんてことで納得するわけ無いだろう」
キョンの言うことは最もだ。あたしだって納得いかない。あたしはみくるちゃん、有希、古泉君と順番に見回して訊ねた。
「みくるちゃんはそれでいいの。有希も古泉君も……本当にそれでいいわけ」
三人はお互いに目配らせをした後、古泉君が答える。
「涼宮さん、これは避けられない運命のような――――――」
「そんなことを聞いてるんじゃないわ!」
あたしは古泉くんの言葉を遮るように叫んだ。
「あたしは有希やみくるちゃんや古泉くんの本当の気持ちを知りたいの。運命だからとか、そんな言葉でごまかさないで!」

言葉を遮られた古泉君は困ったような表情であたしの方を見ていた。暫く沈黙が流れた後、みくるちゃんが目を潤ませて答えた。
「涼宮さん、わたしだって涼宮さんやキョン君と別れるのは辛いです。それは長門さんも、古泉君も同じ。でも、でもね、わたしたちは
子供の頃の涼宮さんが創った世界の住人なの。どんなに子供の世界の居心地が良くても、人はいつかは大人にならなければならない。
いつまでも子供の世界で過ごすことは許されないの。だから、だからふたりと別れるのは辛いけど…………」
最後は言葉にならなかった。でも、みくるちゃんの、みんなの気持ちは痛いほどよくわかった。
あたしはこんな別れ方には納得できない。おそらくキョンも同じ気持ちだろう。
でも、あたしは団長なの。例えそれが辛い決断であったとしても、団員のために最善の選択をしなければならない。
あたしはぎゅっとこぶしを握り締め、一呼吸おいてから、顔を上げ、決断の言葉を口にした。
「わかったわ。じゃあ、みんなとはもうお別れね」
「ちょ、待てハルヒ。お前、それでいいのか。俺達の2年間はそんなに軽いものだったのか」
キョンが慌てた様子で声をかけてくる。キョンにしてみればあたしのこの言葉は意外だったのだろう。
「あたしはあの屋上であんたに言ったはずよ。あんただけは特別な存在だって。みんなの説明が正しいのなら、あんたの世界と
みんなの世界はお互いを否定しあっているはずよ。もし、あたしがみんなの存在を認めてしまえばあたしの中の常識が覆ることになる。
それはあんたの世界が消滅することを意味するわ。これがどうしても避けられない選択なのなら、あたしはあんたを選ぶ」
あたしはまっすぐにキョンを見つめる。
「でも、もしあんたがどうしても、あたしと別れることになっても、みんなを残して欲しいと言うのなら、話は別よ」
あたしは勇気を振り絞ってこの質問をキョンに投げかけた。答えは聞かずともわかっていた。
でも、でも万一キョンがあたしではなく、みんなが残るほうを選んだらどうしよう。
沈黙が部屋の中を支配する。空いている窓から音楽室のオルガンの音と歌声が聞こえてくる。
ほんの数秒だったのかもしれないが、あたしには永遠のように長い時間が過ぎ、キョンが答えた。
「俺も屋上で言ったはずだ。お前の想い以上に、俺はお前を愛しているとな。お前が真剣に悩んだ末に出した結論なら、俺はお前に従うよ」
予想はしていたが、キョンのこの言葉を聞くまでは不安でたまらなかった。だから安心すると同時にあたしの目から涙がこぼれる。
いや、この涙はそれだけが理由じゃない。キョンの回答でみんなとの別れが決定的となったから………
違う、こんなことを考えてはいけない。キョンのせいにしてはいけない。これはあたしが自分の責任で決めたことだから。

あたしは涙を拭うと、キョンに言った。
「ごめんキョン、ちょっと外で待ってて」
「え、なんでだ」
「女の子同士で話があるの」
キョンはやれやれといった表情で、古泉君に視線を向ける。
「おい、古泉」
古泉君は両手を広げ、首を左右に振りながら答えた。
「残念ながら僕はこの部屋から出て行くことはできません」
「どういうことだ」
「外の世界はもう既に我々にとって異世界となっています。
この部室だけが、かつてあなたがいた世界と我々の世界を繋ぐ接点となっているのです」
キョンは自分だけ出て行くのが気に入らなかったようで、なかなか出て行こうとしなかったが、あたしがじっとキョンの方を見つめていると
「わかった。じゃあ俺だけ出て行くよ」
そう言って、ため息をつくと、仕方がないという面持ちで部屋から出て行った。
あたしはキョンが出て行くのを確認すると、有希を抱きしめて言った。
「有希、ごめん、ごめんね、みくるちゃんも」
「屋上でのことを謝罪しているのならその必要はない。あれはあなたが乗り越えなければならない試練。
むしろ乗り越えてくれたことを嬉しく思っている」
「そうですよ。わたしも長門さんも涼宮さんのことを恨んでなんかないですわ」
あたしは有希を抱きしめたまま、みくるちゃんの方に顔を向けて言った。
「ううん、そうじゃないの、キョンのこと。有希もみくるちゃんもキョンのことが好きだったのよね。
でも、でもどうしてもキョンを譲ることはできない。だから、だから………」
「なら、あなたは彼と共に幸せになるべき。わたしの分も、朝比奈みくるの分も。それがわたしたちへの償いとなる」
有希のその言葉を聞いて、また目が涙で潤んだ。
「うん、わかった。幸せになるよ。有希の分も、みくるちゃんの分も。だから、キョンをもらっていくよ」
「涼宮さん」

そんなあたしたちのやりとりを横で眺めていた古泉君が声をかけてきた。
「あの屋上での決意を、そして今日のことを忘れないでください。
これから長い人生を歩む中でもっと過酷な決断を迫られることがあるかもしれません。
でも、今日の決意を忘れなければ、きっと涼宮さんなら乗り越えていけると信じています」
「心配しなくても大丈夫ですよ。涼宮さんにはキョン君がついてますから」
そういえば古泉君にも見えないところでたくさんお世話になってたんだ。なにかお礼でも……
「古泉君、ちょっと内緒話が」
あたしがそう言うと、古泉君が顔を近づけてきた。あたしがその頬にキスをすると、古泉君は頬を赤く染めてうろたえた。
「す、涼宮さん?」
「ふふ~ん、キョンはあたしに内緒で有希やみくるちゃんと楽しいことを沢山してきたのよね。
だからこれは、そんなキョンに対するちょっとした仕返しよ」
みくるちゃんが悪戯っぽく微笑んで聞いてくる。
「唇じゃないんですね」
以前のあたしならうろたえていたかもしれない。いまの古泉君のように。でも、いまのあたしはこんなことでは動じないわ。
「みくるちゃん、あたしと唇をあわせることができるのは、あたしと共に人生を歩むたったひとりだけよ」
「うふふ、そうですね」
あたしは部室のドアの前に立ち、振り返ってみんなを睥睨してから、高らかと宣言した。
「ではこれよりSOS団の無期限休団をここに宣言します。いいみんな、解散じゃないわ、休団よ。
だからまた、あたしがみんなを招集したときには、すぐに集合すること。いいわね」
「了解」
「わかりました」
「了解いたしました」
三人が三者三様の答えを返してくれた。
あたしは踵を返して、ドアを開けた。その瞬間、背後の窓から一陣の風が旧校舎の廊下へと吹き抜けた。
振り返りはしなかった。振り返らずとも、この部屋には、もう誰もいないこと知っていたから。
あの一陣の風と共に、みんなはそれぞれの世界へと帰っていったのだ。

廊下に出ると、キョンが壁にもたれて、あたしが出てくるのを待っていた。
「もういいのか」
「聞いてたの」
「最後の休団宣言だけな。俺はどうなるんだ」
答えはわかっているが一応聞いてみる、といった感じでキョンがあたしに尋ねてきた。
あたしはおそらくキョンが予想したであろう回答を答えた。
「そんなの決まっているじゃない。あんたはこれからもずっと、あたし専属の雑用係よ。なんか文句でも」
「いや」
キョンはやっぱりといった表情で答えた。
「じゃあ行くわよ」
そう言って、あたしはキョンの手を引っ張って走り出した。過去の子供だった頃の自分を振り切るように。
走りながら、文芸部の部室をチラッと横目で見て、小さな声で呟いた。
「さようなら、あたしのSOS団」


~終わり~
 

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最終更新:2020年03月13日 00:13