キョンの手を引いてやってきた場所は旧館の男子トイレ前の廊下、
まだ中に入ってすらいないのに鼻を刺激する臭いを感じる、今は気にしないでおこう。
ここに閉じ込められるのは俺じゃない、キョンだ。
災難だとは思うが、これはそう、罰だ。
こいつは何も悪い事はしていないし、何に対する罰なのかもわからんが、罰だ。
ここに人が入っていく所を見たことはないし、こいつにも色々と考える事があるだろうし、
まあ、おあつらえ向きだろう。

「とりあえずこの中で待っててくれ、ここなら誰も来ないだろ、部活が終わったら迎えに来る」

あんまり長い間席を外しているとハルヒも心配するからな。
と付け加え、俺はこの刺激臭から逃げるように部室へとダッシュした。
去り際にキョンが何か喋っていたが、聞こえないフリだ。
部室へと戻ると、先程の一騒動などまるで無かったかのように、静かな日常が俺を待っていた。

古泉相手になら、飛車と角を適当に動かしてれば勝てるんじゃないかと思い、
適当に飛車と角を動かしてみると、拍子抜けする程あっさり古泉の陣形が崩壊した。
これじゃ小学生にも勝てないぞ、と古泉の弱さが心配になって来た所で、長門が本を閉じる音がした。

「じゃ、お先に帰るわ、また明日会いましょう!」

今日はPCの前でニヤニヤしていただけで終始大人しかったハルヒは、真っ先に席を立ち上がると、さっさと帰ってしまった。
こんな調子の時は決まって何か企んでいるのだが、その内容は知らないし、知りたくもなく、
できれば事態が収束に向かうまで大人しくしていてくれ、と願わずにはいられない。

あの間抜け面を思い出すたびになんだか今後の展開が心配になり
借りれるもんなら猫の手でも借りたい心境の俺は、せっせと将棋の駒と盤を片付けている古泉に小さく声をかけた。

「ちょっと着いて来てくれ」

今回ばかりは、こいつも役に立つかもしれない。 俺より先に奴の正体に気付いた風な事も言ってたし。
何より、あのマヌケ面に色々と説明するのはお前の役割だ。
古泉は、一瞬で俺の思惑を理解し――いや、こいつの事だから既に予見していたのかもな――頷いた。

「じゃあ俺らもお先に失礼しますね、朝比奈さん」

「はい、また明日会いましょう」

朝比奈さんはにこやかに手を振ってくれた。
終わらない夏の時や孤島で見せた怯えた表情も、いつか部室で見たアンニュイな表情もそれはそれでいいのだが、
やっぱりこの人は笑ってる顔が一番似合うと断言できる。 こんな人が生まれる時代だ、未来ってのも案外捨てたもんじゃないかもしれない。
可愛らしい声に見送られ、俺たちは部室を後にした。

「彼の事は興味深いです、少し気になっている事もありますしね」

それはともかく、解説役はお前に任せるからな。
俺がそう言うと、なんだか控えめに笑う声が横から聞こえた気がするが、気のせいだ。
というか、あのマヌケはちゃんとあのトイレで待ってるんだろうな。
適当にうろつかれた挙句行方不明になんてなられたら後味が悪い。


夕焼けに染まる校舎というのは中々に風情があっていいのだが、
旧館は何十年もの年月を経た建物であり、そんな旧館には、なんだかそういった趣があるわけだ。

要するに、不気味だ、正直に言えば、怖い。
旧館は木造なので、十歩に一回くらい、ギシと床が軋む。
この一年、気にした事はなかったのだが。一度気になってしまうともう止まらない。
いっそ古泉の腕にでも縋り付いてしまってもいいのだが。

ふと、背後に何かの気配を感じて立ち止まる。
こんな感じがする時、背後に誰かが居た試しはなく、
今回もそうであって欲しいという祈りも天には届かなかったようで、
振り返って見ると、そこには人間以外の「何か」が居た。

「うお、長門」

そこには長門が幽霊みたいにぽつんと突っ立っていた。
うん、例え人間以外の何かでも、こんだけ可愛けりゃ大歓迎だね。

「ついて来てたのか?」

「私はあの人間に興味がある」

長門はそう言うと、それきり押し黙る。
今回ばかりは長門の力が役に立つかはわからん、だがこいつなら邪魔にはならんだろう。

長門と古泉を連れて再び例のトイレの前に来た俺は、次にどうするべきか考えていた。
トイレの中にいくら呼びかけても返事は無く、ならもうこの中には居ないのだろうと結論を出してしまってもいいのだが、
あのマヌケ面は、どこでも爆睡できるタイプのマヌケ面だったし、実際、俺だって寝るだけなら―常識的な範囲でだが―どこでもできる。
しかしこの刺激臭の中で寝る事のできる人類が居るとは思えないし、きっとどこか違う場所で爆睡でもなんでもしてるんじゃないか?
色々と考えてても仕方がないので、とりあえず行動を起こしてみる事にする。

「古泉、中に入ってあいつが居るか確かめてきてくれ」

「え、いや、…それはちょっと遠慮したいのですが」

古泉め、使えない男だ。
根性を鍛えなおしてやる必要があると感じた俺は

「男の子なんだから頑張って行って来いっ」

言いながら、古泉をトイレに無理やり押し込み、
途中でギブアップしないように、すかさず扉に背を預けて閉じ込めたが、
何が悲しくて男子トイレのドアを身体張って塞がなければならんのかと悲しくなったので、すぐ退いた。

30秒程経過した頃、
トイレのドアからハンカチで口元を押さえた古泉がのっそりと出てきた。

「ちゃんと個室も調べたか?」

「ええ、調べました。 中にあったのは流されずに放置されていた汚物だけでしたが」

なんだそのプチ情報は、無理矢理閉じ込めた俺への復讐のつもりか?

「どうでしょうか?」

古泉はお得意の両掌を真上に向ける妙にアメリカンな仕草をしながら言う。
それはいいがな古泉、お前なんか臭うぞ。

「…」

古泉はなんとも言えない表情になり、鼻で溜息を吐きながらまたもアメリカンな仕草をした。
もう、お前はあちらさんのホームコメディにでも出演してろ。


「よう」

声をかけられ振り向くと、そこにはキョンが立っていた。
走って向かってきたのか、少しだけ息を切らしている。
この野朗。ここで待ってろって言った筈なのに、どこに行ってやがったんだ?
見ろ、お前の所為で古泉がちょっと臭う男になっちまったじゃないか。

「なんで、この中で待ってなかったんだ?」

俺がそう言うと、キョンはピクッと眉根を寄せ、まるで無理難題を押し付けてくるハルヒに言い聞かせる俺の様な口調で言い放った。

「じゃあ逆に聞かせてもらうがな、お前は、このくっせえトイレで何時間も待つ事ができるか?」

まあ、こんな異臭騒ぎの起きそうなトイレの中でバカ正直待っているような奴なんか居ないだろうし。
こんな事を大真面目に命令するような奴はハルヒくらいだ、他に居るとは思いたくない。
でも、だ。 今の今まで一つの文句も言わずにノロノロ着いて来てた奴が、こんな事を言うのはちょっとおかしいんじゃないか?

俺がこいつに対する次の文句を繋ごうとした時、今まで傍観していた古泉が、くつくつと笑い出した。

「失礼、あなたが二人居る、と言う事実を今更ながらに実感しましてね。なんだかおかしくて、つい」

古泉は、笑いを堪えているかのような微笑みを顔に浮かべて

「まず、落ち着いて話のできる場所に移動しませんか? こんなところで立ち話というのも何ですし」

「ん、ああ、そうだな、そうするか」

すっか気勢を殺がれてしまったので、古泉の提案にホイホイと同調する事にした。
俺に対して怒気の篭った目を向けていたキョンも、同じく気勢を殺がれたのか、
意外にホイホイ着いて来た。
長門はまぁ、言わずもがな。何も言わずにホイホイだ。

さて、どこに行ったもんかと考えていると、

「待て、これから何処へ行こうってんだ?」

俺と古泉が並んで歩いているその後ろから、長門と並んで歩くキョンが問いかけてきた。
まさにそれを今考えていたのだが。

「いつもの喫茶店でいいでしょうか?」

すかさず古泉が応える。
いつもの喫茶店と言えば、市内不思議探索の休憩ポイントになってるあそこしかない、
毎度毎度奢らされ続けていると言うのに、何故こいつは自ら死地へと赴くのだろうか。

「それでいいか?」
長門は無反応、キョンはそっぽを向きながら、おう、と応えた。
まさかミヨキチと行った小洒落た喫茶店ではあるまい、そのエピソードはまだ誰にも語った事はないはずだ。

生徒玄関にて靴を履いていると、キョンが俺の下駄箱の蓋をパカパカ開けたり閉めたりしているのが目に入った。
何やってるんだお前。

「靴がねえ」

ああ、良く考えりゃ当たり前だ。
靴がないなら古泉のでも借りとけ。

「上履きでよければ、いくらでもどうぞ」

「いらん」

キョンと古泉の心温まる男の友情エピソードを経て、
校舎を出ると、太陽はすっかり沈んでおり、肌寒い空気と薄暗い世界が俺たちを出迎えてくれた。
SOS団臨時アジトとして認定されてしまっているであろう哀れな喫茶店は駅前にある、
そう遠くは無いが、着く頃にはもう夜になりそうな塩梅である。

「彼の境遇について、どこまで理解できたのですか?」

あいつが聞いてたら気分を悪くするぞ、と一瞬思ったが、
そのあいつは俺たちの後方5メートル程の所を長門と歩いており、
この距離ならまぁ聞こえないだろう、別に聞かれても問題はないのだが。

「あいつは間違いなく俺だ、それは確信を持てた。
それに、この世界とあいつの世界の一年間も、俺たちとほぼ同じだと考えてもいいかもしれん」

「性別以外は、ですね」

蛇足だろう、それは。

「すいません、ですが」

古泉は言葉を中断した、俺が遮ったからだ。

「今はそのおしゃべりな口は閉じてろ、喫茶店に着いたら存分に披露させてやる」

「それもそうですね、今から喋りすぎで疲れていてはお話にもなりません」

古泉が手を広げる気配が伝わる。声色から察するにこいつは楽しんでいるようだった。
途中、背後から素っ頓狂な叫び声が聞こえたが、いちいち反応するのも面倒なのでスルーだ。

喫茶店に着く頃には予想通り、空はもう夜と言ってしまっても誰からも反論はされないであろう程に黒く染まっていた。
適当に飲み物を注文し、俺たちはこれからどうするかを話し合う運びとなった。

「今の所、善後策を協議できる程の確定情報がありません。
なので、これからあなたに色々と質問させて頂きますが、宜しいですか?」

「ああ」

古泉もキョンも真剣な面持ちである。

「まず、あなたがどのようにしてこの世界に来たか、です。 心当たりはありますか?」

「いいや、無い」

何かを思い出すかのように数秒の沈黙

「いつものように文芸部室の扉を開けたら、お前らが居た。それだけだ」

「なるほど、何の前触れもなかった、と言う事ですか」

「そうだ。 ハルヒと朝比奈さんの様子がおかしいと思って、
何か知っているんじゃないかと長門を見れば、長門の様子もおかしかった」

そして、俺に一瞥をくれると

「部室に変な女も紛れ込んでいたしな」

それで、またけったいな騒動に巻き込まれんたじゃないかと思ったわけさ。
キョンはそう付け加えながら、背もたれに身体を預けた。
だがな、流石に変な女などと言われて黙ってるわけにはいかんよ。

「変な女とは心外だな。 あの時助けてやったのは誰だ?
 こっちから見りゃ、巻き込まれたのは俺たちの方だし、お前の方こそ変な男だ」

つい喧嘩腰になってしまう俺を諌めるように

「まあまあ、落ち着いてください。 そんなに喧嘩腰では進む話も進みませんよ」

微笑と苦笑を合体させた器用な顔しながら、
どうか今は僕の顔に免じて。 と言って、ウインクをした。
しょうがない、ここは古泉の爽やかスマイルに免じて許してやるか。
だがな、また変な事言い出したら承知しねえからな。

「話を元に戻しましょう」

俺たちに考えさせる時間を作るためなのか、コーヒーを一口啜る。

「あなたは何の前触れも無く、何の自覚もなくこの世界に降り立った。そう解釈していいですね?」

古泉は、表情から苦笑だけを取り除いて確認した。
器用な奴だ。

「ああ、構わん」

「では、何故彼がこの世界に来たのか考えてみましょう」

何故ってそりゃ、ハルヒが望んだからに決まってるだろう。

「ええ、ですが涼宮さんがそんな事を望むでしょうか?
 彼を異世界へと飛ばしたい。そう思われるほどに」

「あなたは嫌われていたのですか?」

唇を引き絞って真面目な表情をしながら、キョンを見つめた。

「…嫌われているかどうかは知らん。あいつの気持ちなんて解りようがないし、解りたくもねえ。
だがな、ハルヒが嫌いな奴を自分の作った団に置いとくとは思えない」

「ごもっともです。 ですが、大事な事を忘れていますよ。
あなたは今まさに、団を追放されたと言っても過言ではない状況にあるのですから」

言われてみりゃ確かにそうだ。
しかしな、いくら嫌いな奴だからって異世界にぶっ飛ばすなんて荒業、ハルヒがやるとは思えんぞ。

「涼宮さんは、あなたが自分の世界から消えてなくなってしまえばいいと思ったのです。
まだ息があるのは、涼宮さんの心の常識的な部分が、間接的にしろ人を殺すことを躊躇ったからではないですか?」

キョンは目に見えて焦っている。額には汗が伝い、顔はすっかり青ざめてしまっていた。
古泉、ちょっとやりすぎなんじゃねえか?

「ま…て、待ってくれ。 …ハルヒがそんな事望むわけないだろ? 
孤島の時だって結局古泉の仕込みだったしそれに、ここ、最近のあいつはホワイトデーを今にも待ちきれない様子だったんだぞ?」

キョンは早口で抗議した、目に涙を溜めていたとしても違和感がないくらい悲痛な表情で。
正直、見ていて居た堪れない、助け舟を出してやるか。

「ああ、どの世界のハルヒにしろ、あいつがそんな阿呆な事を考えるとは到底思えん」

古泉は申し訳なさそうな微笑へとモードチェンジし

「ええ、そう思う気持ちはわかります。 ですが、そうでなければ何故、彼が今こうしてこの世界に居るのでしょうか?」

ええい、まだ言うのかこいつは。
もう我慢ならん

「古泉! いい加減にしろ!」

古泉が二の句を繋ごうとするのを遮るように言い放つ。
いい加減悪ノリしすぎだ、馬鹿野郎。

「………申し訳ありません。 反省します」

だったら最初から言うな、と言いたい。
少し心配になったのでキョンの様子を見てみると、額をテーブルに当てて頭を抱え込んでしまっていた。

「おい」

「……」

呼びかけるが、返答はない。
古泉も困った様子で微苦笑している。
その表情はまるで、こんな時にどんな表情をすればいいのか解らない自分を、笑っているかのようだった。
っというか、キョンをこんなんにしたのはお前なんだからお前がなんとかしろよ、このこんじょなし

「このバカの言葉なんか、あんまり気にするなよ。
ハルヒが本気でそんな事思うわけないだろ? ちょっとは信用してやれ、我らの団長様をよ」

しばしの沈黙が場を支配する

「……それも、そうだな」

本調子とは言えない――こいつの本調子がさっきの憮然とした態度だと仮定して、だが――
まあ話せるくらいには復活してくれた。
というか、してくれないと困る。


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最終更新:2007年03月19日 21:06