『赤い絲 後篇』
夜空に歪な形の白い月が浮かんでいる。月だけぽつんと。不思議なことに星が見えない。
晧晧とした明りの中、あたしは一人頭上の月をただぼんやりと眺めた。
一体あたしは何でここにいるんだろう。こんな暗闇の中たった一人で。
周りには何もない。あったとしても闇に紛れてしまって見えないのかもしれない。
気付いたらあたしは制服姿でこの暗闇に立ち尽くしていた。
そういえばいつ着替えたっけ。いつの間にかパジャマではなく制服を着ている。
自分の身なりをぐるりと一通り点検して──気がついた。
右の小指に糸が絡み付いている。
でもそれは『白い糸』だった。
その白い糸は自分の小指から見る見る伸びていき、闇の方に消えていく。
あたしはその白い糸を誘われるかのようにふらふらと追いかけた。
月明りに照らされた白い糸は真っ直ぐ真っ直ぐ延びていく。
あたしはただそれに従うように足を前に動かした。
いくらか進んでいくと前方に人影が現れた。小柄な影。
その影には見覚えがあった。
距離を縮める。自分の推測は間違っていなかった。
「──みくるちゃん」
そう呼びかけるとみくるちゃんは砂糖菓子みたいな微笑みを一瞬浮かべたかと思うと、即座に消えていった。白い糸も一緒に。
すると今度は新たな白い糸が出現した。別の方向を指し示す。
あたしはまた黙々とその糸を辿った。
さっきと同じ位の道のりを歩くと、今度は前方に長身の人影。正体は自ずと知れた。
顔が判別できるくらいまで近づいてからあたしはその人影に呼びかけた。
「古泉君」
古泉君もみくるちゃんと同じようにいつもの笑顔で微笑んでからすぐに霧散した。
そしてまた現れる第三の白い糸。そうすることが当たり前であるかのようにあたしはまた糸を辿る。
その先にいたのは細く小柄なシルエット。
「有希」
有希は微笑みこそしなかったけれど、あたしの顔を真っ直ぐ見つめ返し首を横にちょこんと傾げ──やはり消えていった。
有希が消えていった空間をしばらく眺め、再び右手の小指に視線を移した。
そこにはさっきの三人のと比べるといくらか細い白い糸が何本も巻き付いていた。
その先には、鶴屋さん、阪中、妹ちゃん、親父に母さん、森さんや新川さん、国木田、谷口まで──
確認していく端からみんな消えていく。そしてまたぽつんと一人残された。
暗闇は暗闇でしかなくなった。ただ月しかない寂しい空間。
(あれ?)
あたしは首を巡らしあたりを見まわした。やっぱり闇だけしかない。
急に心細くなる。そしてなぜか焦りはじめた。
──コレデ『終ワリ』デハナイハズ。
思い立って左手の小指を再確認し──愕然とした。
(どうして……)
そこにあるべきものが見当たらなかった。
ない。『赤い糸』がない。
空回る焦燥感で胸が焼けるように痛む。目頭も熱くなる。それくらい動揺した。
もう一度あたりを見まわす。けれどやっぱり求める人物の影は見当たらない。
なんで? どうして?
混乱する思考の中であたしは奇跡的に思い出した。
──この赤い糸が消えていればいいのに。
そう願った。だから──
あたしは無意識に小指を必死に擦り始めていた。魔法のスプーンでもないのに。そうやって念じればまた見えるんじゃないかって。
これじゃ確めることができない。確信が持てない。
あたしとあいつの繋がりを。
運命という名の確証を。
あたしはがむしゃらに自分の小指を強く握った。お願いだからあと一度だけ見せて頂戴。そう願いながら。
しばらくそこで蹲って──ふと顔を上げた。
小指を恐る恐る見やる。
──あった。
赤い糸はしっかりあたしの小指に巻き付いていた。
あたしは立ちあがり駆け出す。逸る心を抑えきれない。
会いたい。早く会いたい。
白い糸を辿っていった時より長く感じられた。いや実際長かったのかもしれない。
けれどそんなことは構わなかった。この糸を追っていけば必ず辿りつけると確信していた。
心の準備は万端だったはずなのに、それでも前方に人影が見えたとき、あたしの心臓は大きく跳ねあがった。
歩調が自然とゆっくりになる。乱れる心臓の鼓動を抑えつけ、あたしはゆっくり、でも着実にその人物に近づいていった。
だんだんはっきりする影。
見なれた背中。紺色のブレザー。
嬉しくて泣きそうになる。
あたしは堪らず駆けだしそうになって──気付いてしまった。
あたしの赤い糸がいつの間にか消えてしまっていることを。
そしてその代わりに、前方に佇む人物の左手の小指から赤い糸が延びていることを。
その延びた先が自分の方ではないことを──
突然その場が暗くなった。もともと暗闇だけの空間だったけれど、今度こそ本当の『真っ暗』だ。
いつの間にか月が消えている。でも『真っ暗』の原因はそれだけじゃない。
これは絶望という『暗闇』だ。
救いようのない『暗闇』が月の明りまで塗りつぶしてしまったのだ。
あたしはその絶望の中、ただ立ち尽くすしかなかった。
そして絶望は目の前の後姿も飲み込んでいく。
消えてしまう。あたしを振り返ることもなく──
(振り返ってよ)
(振り返って、あたしを)
(あたしの名前を呼んで)
(ハルヒ、って)
「キョン!!」
自分でも驚くほどの悲痛な叫び声は、暗闇を引き裂き──
そこであたしは目を覚ました。
「おはようございます、涼宮さん」
月曜の朝。登校時。学校に続く坂道。
掛けられた声に反射的に振り向くと、我が団の副団長こと古泉一樹がいつものさわやかスマイルで微笑んでいた。
「──おはよう」
あたしはその顔を複雑な気分で眺め、挨拶を返す。
古泉君はあたしの様子に「おや?」と首を傾げた。
「ご気分が悪そうですね」
古泉君は歩き出したあたしの隣りに並び歩調を合わせる。あたしは進行方向を向いたまま返答した。
「ええ──多分夢見が悪かったのよ」
「多分?」
「悪夢の内容をあまり覚えてないの」
「なるほど」
なにか納得したように古泉君は頷いた。
そういう古泉君こそ少し疲れてるようにみえるけど?
「実は早朝から飛び込みのバイトがありまして」
「朝から?」
「ええ、緊急を要したものですから。実はバイトを終わらせてそのまま登校ってわけです」
緊急ねえ……消防士じゃあるまいし。前から思っていたけど一体どんなバイトなのか気になるわね。
これを機に聞き出してやろうかしら──と無邪気な好奇心が芽生えたけれど、古泉君の「それにしても」と絶妙なタイミングで紡いだ言葉によって、それを実行に移すことは遮られてしまった。
「悪夢は人に話すといいと聞いたことがありますが──覚えていないならそれも無理ですね」
そう言えばそんなこと聞いたこともある。
そうね、とあたしは少し考え込んでから、
「細かいところは覚えていないんだけれどね、多分……赤い糸のことだと思うのよ」
「赤い糸?」
古泉君が怪訝そうな顔をしたので、あたしは昨日鶴屋さんとみくるちゃんに偶然出会って、そのとき赤い糸の話をした、と説明した。
「赤い糸って中国が発祥なんだって。古泉君、知ってた?」
「ああ、確か『太平広記』の話でそんなものがありましたね」
さすが古泉君。どこぞのバカに爪の垢でも煎じて飲ませたいくらい博識ね。
「朧げにしか覚えていませんが」と謙遜しながらも、如才がない副団長はしっかり鶴屋さんたちの話を補足した。
曰く、
「『太平広記』の『定婚店』という話だったと思います。韋固という若者が縁談相手に会うために出かけていく途中、月明りの下で老人と出会うんです」
「で、『この縁談は上手くいかない、お前の本当の相手はこの赤い糸で結ばれた娘だ』って言うんでしょ?」
「それ、実は赤い糸ではないんですよ」
「え? そうなの?」
「ええ、正確には『赤い縄』です」
縄……
「なんか一気に神秘性のへったくれもなくなったんだけど……」
古泉君は「そうですね」と苦笑した。
「それに現在赤い糸は小指と小指を繋ぐもの、と認識されてますが、『定婚店』の赤い糸──もとい赤い縄は足と足を結んでるんです」
足と足──ますます体裁が悪い。その姿を思い浮かべるとかなりシュールだ。
不満を露わにするあたしに古泉君はふふっと声を漏らして笑った。「涼宮さんらしいですね」と。
その一言にも釈然としないものを感じていると、「それにしても」と古泉君は実にさりげなく核心を突いてきた。
「『赤い糸』の『悪夢』とは?」
あたしは咄嗟に言い澱む。説明しにくいし言いにくい。
けれども話を切り出したのは自分だ。そのまま紛らわして黙殺することも憚られたし、実のところ誰かに聞いてもらってすっきりさせたいのもあった。
結局あたしは夢の表層部分を掬いとって言葉にしてみることにした。
「その『定婚店』という話でさ、若者は自分の運命を変えようとするけれど結局赤い糸が示した娘と結婚することになるよね」
「そうですね」
「赤い糸の指した運命って変えられないものなのかしら──」
「──なるほど」
古泉君はまた何やら自分一人で納得し、少し考え込む顔をしてから、
「涼宮さんはミステリがお好きですよね?」
と、いきなり調子はずれなことを聞いてきた。あたしは半分呆れながらも「まあ人並程度には」と返す。
古泉君はあたしの答えを確認するように頷いて、質問を続けた。
「ミステリを読む時は犯人が誰なのか推理しながら読む派ですか?」
「ええ勿論」
「では話の途中で推理が完了して犯人が、もしくは結末が分かってしまったことは?」
「時々あるわね」
まるで病院で医者の問診を受けてるみたいだ。
古泉君はあたしの返答に満足したように頷いた。
「ではそのとき涼宮さんはなぜ犯人がわかったのですか?」
「なぜって……話の端々に見え隠れする色々な事実を総合して論理的に並べてみたらその人しか考えられないから──」
「『定婚店』の『赤い縄』もそういうことだと僕は思います」
にっこり微笑んできっぱり言いきる古泉君。けれどあたしには何が「そういうこと」なのかさっぱりだ。
「ミステリを読んでる時はその本の中に犯人を示すヒントが隠されていると思い、犯人の決め手となる有力な情報を拾い上げますよね。
けれどもし実際事件の渦中に放りこまれたら一読者として謎解きをしていたように的確に推理することはできないと思います」
「それは動揺して論理的な思考が組みたてられない、ってこと?」
「それもありますが……事件に関係した世界を外部から客観視する方が、内部で主観的に情報に触れるより絶対的に誤謬が少ないのです」
古泉君ってこういう話をする時イキイキするわね。キョンはたまにうんざりしているけれど、あたしは古泉君の独特な解説を聞くのは嫌いじゃない。寧ろ愉しく感じる。
だからあたしはしばらく古泉君の話に耳を傾けることにした。
「韋固の例を挙げてみましょう。彼は自分の運命を変えるために貧しい身なりの少女を傷つけようとしました。しかし運命は変わらなかった。つまりこう考えることができます。『少女を傷つけること』は『運命を変える』事象ではなく、『運命を決定づける』事象の一つに過ぎなかったのだと」
「韋固は当事者だからそれが見えなかった、ってこと? でも端から見てもマイナスに動くはずなのに実はさらにプラスしていたなんてこと、気付けっていうのも無理な話よね」
「そうです。この世の中のどんなに些細な事象も、どんなことに発展していくか想像つきません。涼宮さん、『バタフライ効果』をご存知ですか?」
「北京の蝶の羽ばたきがNYに嵐を起こす、ってヤツ?」
「それです。初期値の僅かな差も後に甚大な差を生み出すカオス理論の一つです。でも今回の場合は『塞翁が馬』という言葉のほうが当てはまっているかもしれませんね……」
そう言えば鶴屋さんも昨日そんなことを言っていた。あれはあながち的を得た言葉だったのか。奥が深い人だわ、鶴屋さん。
「韋固の運命を決める事象は他にいくつもあったのでしょう。その日に当時の婚約者の元へ訪ねることも決定事項の一つであったのかもしれません。時間は連続的なものですから、今現在起きていることすべては多かれ少なかれ未来に影響している、と考えるのは決して過言ではないはずです」
「そう、その通りね」
「では涼宮さん。今現在この時点でのあらゆるすべての事象を総合した結果、あなたは今日の昼休みに西側の階段から転げ落ちて怪我をしてしまう、という未来を知ってしまったとしましょう。あなたならどうしますか?」
また話が別のところに飛んでしまった。古泉君の話って飛び石みたいだわ。
さて、「どうしますか」って聞かれても――
「階段を利用するとき注意する──ううん、それでは避けれないかもしれないからその階段を絶対使わない、とか」
「そうやって未来を変えようとしますよね。確かに西側の階段を昼休み使わなければ自ずと自分の知った未来とは変わってきます。けれどそれでは自分が知った未来をはじき出した『現時点でのすべての事象』に『未来を知ってしまった自分』が含まれていないことになります。本来なら未来を知った時点でその未来も変わるはずではありませんか?」
「そう、かも……しれない、けど……ちょっと待って」
なにか合わせ鏡やメビウスの輪を連想させるような話だ。止む無くあたしは自分の頭の中の整理に取り掛かる。
ええと、つまり──未来を知らない時点ではあたしは『昼休み西側の階段から落ちる』ことになっていた。
けれど、未来を知ってしまったらその時点で、未来は変わってしまい──例えば『昼休みに階段から落ちなかったけれども、今度は一階の廊下を歩いていたら飛んできたボールに当たってしまう』ことになった。
でもそれを知るとまた別の未来に書き替えられて──
ううっ、なんかこんがらがってくるけど、つまり、
「今現時点で起きていることがすべて未来に影響しているならば、『未来を知る』ということも未来に影響するってことで……つまり未来予測は一生かけてもできないってことになる、ということかしら」
「さすが涼宮さん。僕の説明でよくおわかりいただけましたね」
と、古泉君は心底ホッとしたような顔になった。
「ではここで話を元に戻しましょう。韋固は赤い縄という形で己の未来を、運命を知ってしまった。けれど結局変えられなかった。いや知ってしまったのにも関わらず未来は書き替えられなかった」
「それは……赤い縄で未来を知ることも運命を決める決定事項の一つだからじゃないの?」
「そうです。この赤い縄は世界のあらゆる事象も、それどころか己の存在の発露さえ踏まえて完璧に未来を予測している。さて、ではこの赤い縄を示したのは一体『誰』なんでしょうね?」
「──ラプラスの悪魔、とか?」
「それは言い得て妙ですね。答えの一つとしてよいかもしれません」
「じゃあ他は?」
「『異世界人』なんてのはどうでしょう」
「『異世界人』──」
「そうです。強いて言えばこの世界に直接関わっていない『外部』のモノです」
あたしはようやく古泉君がミステリの推理云々をこの話の引き合いに出した真意が見えた。
「つまり──『外部』の人間は『内部』に対して何も影響を与えられない。けれどその『内部』で起きている情報はすべて回収可能だし、そうすることもやっぱり『内部』に影響することもない。結果を導き出してもそれも『内部』には影響はない。だから完璧なただ一つの未来が導き出せる、そういうことね」
「おっしゃる通りです。だから韋固が見た赤い縄は、『内部』の者の韋固自身が見たのではなく、『外部』の何者かの視点を彼が間借りしただけだと僕は思いますよ」
中国の昔話が、なにやら異世界人まで絡む壮大な話に発展してしまった。古泉君はいつもこんなことを考えているのかしら。
でも、ということは──
「やっぱり赤い糸の示す運命は変えることができないのね……」
ぽつりとあたしは呟く。
古泉君の話で少し気は紛れたけど、しょげた気分はそのままだ。結論的に結局救われていない。
「古泉君ならどうする? もし──もしもよ? 韋固みたいに赤い糸が見えたら。やっぱり相手を確認する?」
古泉君はあたしの唐突な質問に少し面食らったみたいだったけれど、すぐに真剣な顔つきで考え込みちゃんと答えてくれた。
「そうですね……やはりどうしても気になってしまいますから、確認しに行きますね」
「赤い糸を辿って?」
「いえ、自分が予測した──いや、希望する相手の元に行って、自分の赤い糸の先がその人の小指に繋がっているかまず確認しに行くんです」
──あ。
「? どうしました?」
「ううん、そうね、そうすれば手っ取り早いわね……」
でも、あたしはそれをしなかった。赤い糸に二日間も振りまわされてげんなりしていたのに関わらず、それをしようとは露ほども思わなかった。
むしろ『会いたくなかった』
そうか、あたしは──
あたしは歩を止めた。古泉君はそのまま二歩ほど進んでから訝しげに振り向いた。
「でも、それって怖くない?」
「怖い?」
「うん、もしかしたらその相手と繋がっていないケースもあるのよね。だから、あたしには、怖くてできそうにない」
古泉君は少なからず驚いた表情を浮かべて、それからなぜか柔らかく微笑んだ。
「確かに……それを考えたら僕も怖気づいてしまいそうですね」
「結局どっちなの? それ」
あたしが呆れて尋ねると、古泉君はいつもみかけるちょっと困り気味な笑顔で「本当に」と言った。
そして少し遠くを見るような目つきで「でも」と続けた。
「考えてみたら僕の見たという赤い糸が韋固が見たものと同じものだという保証はどこにもないんです。僕は『内部』の人間ですからその赤い糸が『外部』から観測された結果を示しているか確認しようがありません。これは『異世界人』たちの特権ですね」
確かにそうだわ。
ずるいわね『異世界人』。
「だからその赤い糸は僕が確認しに行ったことで糸の先を変えてしまうこともありますね」
「ああ、さっきの階段の話みたく?」
「そうです。僕が確認しに行く、いえ赤い糸を認識する前は確かにつながっていた相手が、認識した直後別の誰かに換わってしまい、それを辿るとまた別の結果が作られる。だからもしかしたら自分の赤い糸の先の人物は一生わからないかもしれません」
「そうか……うん、そうね、それは当たってると思うわ」
古泉君は不意に納得したあたしに少し戸惑った表情を滲ませつつも微笑み、突然立ち止まった。
それにつられて顔を上げると、見慣れたガラス戸が目の前にある。いつの間にかあたしたちは昇降口までたどり着いていたのだ。
あんなに会話に熱中していたのにも関わらず、無意識に足がここまで運んでくれる。習慣とは侮れない。
古泉君の下足箱の位置は自分の場所と離れたところにあるから、ここで一時お別れだ。
最後に古泉君はおまけ話を付け足した。
「それに今我々が知っている小指と小指を繋ぐ赤い糸には別の意味がこめられていると思うんです」
「別の意味?」
あたしが聞き返すと、古泉君はガラス戸を押しながら、少し悪戯っ子のような光を目に浮かべた。
「韋固の話の時点では足と足を繋ぐものが、いつしか小指と小指に変わっていった。なぜだと思います?」
「そういえば……どうしてかしら?」
古泉君は自分の左手の小指を顔の前に掲げて、
「ではヒントを。小指が象徴するものを思い出してください」
と頼んでもないのに教えてくれた。
「それではまた放課後に」
そこで時間切れといわんばかりに、考え込むあたしを置いてきぼりにして古泉君は自分の下足箱のある方に消えていった。
あたしは古泉君が残した小指の謎に頭をひねらせながら、自分の下足箱に向かう。
簡単そうなのに意外と思い付かない。頭の中がもやもやとする。答えの側まで辿り着いているのに、なにか目くらましがあって見えてこないのだ。
小指、小指、赤い糸、赤い糸、小指──だめだ。今これ以上考えても不毛ね。
自分の下足箱の前に立った時、あたしはその謎解きを一旦止めることにした。
下足箱から上履きを取り出し、履き替え、身をかがめて床に転がった靴に手を伸ばし拾い上げる――途中であたしは止まった。
あたしの目には自分の小指に絡みつき、どこへとなく延びていく赤い糸が映っている。
そう、赤い糸は今もなお『顕在』だった。
ただ心なしか昨日までと比べると透きとおって見える。
自分以外の糸も然りだ。両親は相も変わらずしっかり赤い糸で結ばれていたし、ここまでの道中もまだ至るところに赤い糸が渡っていた。
もちろん古泉君のも見えていた。彼の赤い糸の先はずっと後方に延びていた。それしかわからなかったけれど。
透明な赤い糸が張り巡らされた光景は、昨日よりも更に糸の存在の不可思議さを際立たせていた。
はっきり見えてしまうと、まるで映画の特撮のようでどこか嘘っぽい滑稽な有様だったのに、幽かな存在になったことで神秘さがぐんと増したように見えた。それにちょっと感動してしまった自分。
昨日は見えなくなればよいとまで考えたくせに。
心境の変化の原因は、やはり夢が影響してるのだろう。覚えていなくとも識閾下にはしっかり残っているようだ。
実際、赤い糸から逃げるように眠りについたというのに、今朝起きた時点で自分の左手の小指にまだ赤い糸があるという事実を認めると、あたしは明らかに『安堵した』から。
ではなぜ──
なにかショックで目を覚ましたのは分かっている。まさに言葉通り『飛び起きた』のだ。けれど、その衝撃で夢の形は崩れてしまった。
まだ記憶の表層部に残っている夢の欠けらを拾い集め思い出そうとすると、その欠けらがいつの間にか零れていき記憶の奥底に落ちていく。
だからなんで自分が安堵したか、推測しかできなかった。
夢の中のあたしは赤い糸が見えなくなって、もの凄いショックを受けたのだ、と──
ふと前方に気配を感じた。そこで自分が身をかがめた格好のまましばらく考えごとに耽っていたことに気づく。
慌てて靴を拾い上げ、自分の下足箱に放り込んだ。蓋に手をかけたとき自分がいる下足箱の列に誰かが入ってきた。下足箱と対面している自分の後ろを通り過ぎる。
入って来た人物をちらりと盗み見た。知らない顔。隣りのクラスの男子だろう。やはりしっかり左手の小指に自前の赤い糸をひきつれている。
その男子が自分の下足箱を開け、靴を履き替えて蓋をしめる一連の動作をしてる間いっぱいいっぱいを使って、あたしはゆっくり自分の下足箱の蓋を閉めた。そして、そのままの格好で男子生徒が去るのを待った。
不意の闖入者はさっさと廊下に上がり階段の方へ消えていく。遠ざかる足音を聞きながらあたしは無意識にため息をついた。
自分が昇降口でこうぐずぐずしている理由はわかっていた。
ちらりと視線を横に流す。整然と並ぶ一年五組の下足箱。その一つに目が止まる。
こんな早い時間帯にはまだ来ていないだろう。けれどいずれ来る。あいつが学校を休むことはほとんどない。だからこのまま教室に行けば──あの席に座れば、自動的に『確める』ことになる。
朝、確かにあたしは赤い糸がまだ見えることにホッとした。けれどその安堵も一過性のものだったらしい。
家を出て学校に向かって歩き出すと、なりを潜めていた憂鬱がむくりと起き上がり、どんどん勢力を広げていった。
傍目にも気鬱そうに見えたのは『赤い糸の悪夢』のせいというか、『赤い糸』そのものによって。古泉君に声を掛けられたときも、今にも回れ右して帰りたい自分を、どうにか押し留めている最中だった。
だから古泉君の顔を見た時、微かな絶望と古泉君に対する感謝が心の中で渦巻いた。
(ああ、逃げそびれてしまった)
(これでもう学校に行くしかない)
(いい加減腹を括ってしまおう)
怯臆と自尊。それらが心の綱の両端を引っ張り合った。昨日の夜までは臆病なあたしの優勢勝ちで、勝負にもならなかったのに。
今日の朝、完全とまではいかないけれど、いつもの強気なあたしがちょっとだけ復活してきたのだ。逃げ腰になる情けないあたしをなんとか奮い立たせようとしている。
古泉君と別れて一人きりになった今も、またこの途方もない綱引きが始まっていた。
来る前に帰ってしまおうか……だめだ、ここまできて逃げるなんて……でも『確める』のが怖いのは本当じゃない……
それに……『確める』ことで赤い糸の先が変わってしまうかもしれないわ。
感情に任せて引き合う両者の前に論理的な鉄壁が現れて、綱引きは唐突に中断された。
あたしは昨日、一昨日の探索のことを古泉君の言葉と合わせて思い返す。
『赤い糸を認識する前は確かにつながっていた相手が、認識した直後別の誰かに換わってしまい、それを辿るとまた別の結果が作られる』
この言葉を聞いた時、赤い糸の先にまったくたどり着けなかった理由を見つけた気がした。
自分の赤い糸を追い掛け回したことによってあたしの運命がころころ変わってしまった。だから追いかけても追いかけても一向に先が見えないのではないのかしら。
だとすると、この赤い糸と『韋固の赤い縄』とは別物なのだということになる。絶対に変えることのできない『異世界人』がマーカーした運命ではないのだ。でもそれは余計危険じゃないのかしら。自分の行動一つで糸の先は方向転換してしまう。だから『確める』ことによってあたしの運命もどう転がるかわからない──
このついさっき生まれた不安要素は、まだ深層に定着はしていなかったけれど結構な威力があった。
恐怖心をなんとか抑えつけても、慎重なあたしが教室に向かうことさえも遮る。
『確める』ことは間違った選択なのか、『当事者』のあたしにはわからない。
でも『確める』ということは、たとえ変わってしまったものでも『運命を見る』ことにはかわりないのだ……
その覚悟を決めながら教室で『待つ』のは正直しんどそうだ。だから今教室には行きたくない。
では、どこで『待つ』?
一度家に戻るには得策じゃない。途中でばったり会ってしまう確率が高い。
そうだ──部室に行こう。
あたしは右向け右をして昇降口から廊下に上がると、教室へ向かう階段とは反対方向へ足を向けた。
部室でぎりぎりまで時間をつぶすのだ。ぎりぎりまで考えよう。『確める』べきか否かを。
そう決めつけることで自分の内心も一応落ち着きを取り戻した。
人気のない廊下はひっそりと肌寒く、薄暗い。窓からさしこむ朝の日差しの中、何本かの赤い糸が浮かび上がって見えた。あたしを先導しているかのように廊下の先まで続いている。
廊下の突き当たりはもっと薄暗かった。それでもやはり何本か赤い糸が渡っているのが見えた。
そこに──
「有希――」
突き当りを横切った影は、瞬きする間に廊下の向こう側に消えて見えなくなった。けれどあれはSOS団の無口読書キャラの長門有希だ。遠くて小さかったけれど間違いない。向かった方向からして有希も部室に行くらしい。
あたしは有希の後を追いかけようと歩調を速め――すぐ緩めた。
足がどんどん重くなる。ちがう。重くなったのは心だ。
突如芽生えた不安があたしをどんどん蝕んで、本能的に有希の元に行くことを拒んでいる。
見たくない。有希の赤い糸は見たくない。
あたしは踵を返し、
有希から逃げた。
昨日みくるちゃんの赤い糸を見たとき、少なからずあたしはホッとしていた。
推測に過ぎないけれど、みくるちゃんの相手はまだ生まれていない相手で……キョンである可能性がなかったから。
でもキョンは?キョンの赤い糸はどこを指し示しているのだろう。
沈んでいたはずの夢の残滓が浮かび上がる。
キョンの背中。キョンの赤い糸。その先は──
あたしは自分の赤い糸の先ばかり考えて、キョンの赤い糸の先についてまったく考えていなかった。
キョンの赤い糸の先が別の誰かに繋がっているという可能性だって十分あるのに。それを目の当たりにする方がよっぽどショックだ。
そして、その相手が有希と繋がっていたら……
有希がキョンに対して厚意を持っていることにあたしは薄々気づいていた。
その感情は恋愛感情とはまた違う、とても純粋なものだということも知っていた。
けれどもそう頭でわかっていても、有希とキョンの間に存在する信頼関係に、いつしかあたしの胸は不安という名の棘に襲われるようになった。
キョンがみくるちゃんを庇うときも小さな棘がチクチクする。その回数は数え切れない。
有希のはたまに、だ。でも刺さるのは大きな棘。一瞬息ができなくなるほどの痛み。
キョンが黙々と本を読む有希の姿を何気なく眺めていたり、有希がキョンをじっと見つめていたりするとき──ただそれだけなのに、あたしはどうしようもない不安に苛まされる。
有希とキョンが今すぐどうこうなる、という心配はしていない。けれど──時間が経てば変わっていく。人の想いも、関係性も。
マイナスがプラスに、プラスがマイナスに変わることさえ起こる世界で、プラスのものがプラスの無限大に発散することなんてもっと容易いのではないのだろうか。
だからあたしは、不安で不安で仕方ない。
有希の未来が、未来の有希が、不安で──怖いのだ。
有希のことは大好きだ。でもそれと同じくらい恐ろしい存在でもある。
改めて自分の胸中を認識する。同時に後ろめたさも感じた。
有希、ごめん。
心の中であたしはあの無垢で透明な瞳に謝罪した。
「よう、キョン」
いきなりブツン、と回線が切れたように外部の世界と繋がって、一瞬自分がどこにいるか分からなかった。
今のは谷口のアホの声だ。そのバックグラウンドに朝の教室特有のざわめきが聞こえる。
ああ、とあたしは目の前に広がる空を仰いで小さく呻いた。
いつの間にあたしは教室の自分の席に納まってしまっている。これも習慣の成せるわざか。
有希から逃げたあたしは茫然自失のまま無意識の内に教室に辿りついていた。
これではあと十秒後にはキョンと接触してしまう。
『確める』か『確めない』か決めない内に、上の空で『確める』のカードを拾い上げていたなんて、うっかりしすぎよ、あたし!
──どうしよう。
もう逃げられないわ。
──どうしよう、どうしよう。
覚悟を決めるしかないわね。
──どうしよう、どうしよう、どうしよう。
とりあえず落ち着け、落ち着けあたし。
キョンがこちらに来るまでに態勢を立て直しておかなくちゃ──
けれど無常にもキョンは谷口たちと二、三言だけかわしてあたしの方に──自分の席に向かってきた。
逃げ場は、ない。
緊張で体が強張っている。さっきから指一本動かせない。それなのにやたら神経だけは過敏で、あたしは知らず全神経を背後に集中させキョンとの間合いを計った。
あと五歩。ここは思いきって今振り返ってしまうべき?
あと四歩。いや席につくまで待っていよう。
あと三歩。キョンが「よう」と言ったら、覚悟を決めて──
あと二歩──
「よう」
……フライングよ、このバカ。
あたしは結局振り返るタイミングを逃し、顔を外に向けたままぽつりと「おはよ」とだけ返した。これでも今のあたしにしては上出来くらいだ。
キョンは振り返りもしないあたしに「なんだ、今日はご機嫌斜めだな」とぼやいた。
どかっとあたしの前の席に腰をかけ、しばらくこちらを見て何か言いたげにしていたけど、まったく無反応なあたしに「やれやれ」と溜息吐いて、前を向いてくれた。あたしはそっと息を吐いた。
しばらくこうしてキョンの方は見ないでやり過ごそう。そして自分の内心と決着をつけたら前を向くのだ。
そう決定して、しばらく空でも眺めて気持ちを落ち着かせようとしたその矢先──
「げ」
キョンの呻き声が聞こえた。ちょっと嫌な予感。ちなみにあたしのカンは大抵外れたことはない。
キョンの動向が気になって思わず聞き耳を立てた。眺めていた青空の映像に音声が付く。
ガサガサ、パラララ、カタン(多分テキストやらノートやらを取り出し広げているのだろう)
しばし静寂(なにかに取り組んでいる。もうすぐ始業なのに)
大仰な溜息一つ(早々に諦めるんじゃないわよ)
ガタン(やっぱり──)
「ハルヒ」
そうくるか。
あたしも大きく溜息一つ吐いて振り向かずに「なによ」とぶっきらぼうに返した。
「今日は七日だったよな」
「そうだけど?」
それが何だというのかしら。
「お前今日のリーディングの訳、してきたか?」
ここであたしはピンと来た。キョンの出席番号は七番。ちなみにあたしは女子の七番だ。
「あたしはその場で訳す主義なの」
これは本当のこと。いちいち予習してたら時間が勿体無い。
「じゃあこの場でこの一文だけでもいいから訳して見せてくれ」
キョンはなおも食い下がった。今日に限ってしぶとい。けれどお生憎様。今振り向く気は更々ないのだ。
あたしは「だめ」と突っぱねる。
「自分でなんとかなさい」
「自分でなんとかできるなら最初から頼まない」
「じゃ、なんとかしようと、なんとかしなさい」
「むちゃくちゃだぞ、それ」
キョンはうんざり嘆く。
しばらく沈黙が流れた。ようやく諦めたわね。
と思ったあたしが甘かった。キョンにしては珍しく今日はやけにしぶとかったのだ。
「ハルヒ」
青空しかなかった目前に突然何かが現れ上下に振れた。
手。華奢で大きな──キョンの手だ。
上下に振れるものの正体を知って一瞬身構えた。
しかしそれは懸念すべき『左手』ではなく、『右手』の方だとすぐに気付く。全身を巡った緊張が解けた。
よかった、『左手』じゃなくって……
安堵する一方で、「まったくこのバカは!」と、不条理な怒りが込み上げてきた。相乗してキョンに対してなにか言ってやりたいという気分が高まる。
このときあたしは、自分がパニック状態の余韻をまだ引き摺っていることに気付いていなかった。つまり──冷静な判断とやらができる状態ではなかったのだ。
だからこともあろうかあたしは押し殺した声で、
「あんたも大概しつこいわね!」
と、前を──キョンを『振り向いて』しまった。
自分の失態に気づく五秒前。
目の前にはリーダーのテキスト。今日やるページが開かれている。そのテキストを掲げているのはもちろんキョン──の手。左手。え、左手?あ──
「この一文だけなんだ、頼む」
やたら構文が複雑な長い一文を指したのは紛れもなくキョンの『右手』だ。
だからさっきからあたしが注視している、テキストを持っている手はやはり『左手』であって。
つまりキョンの『左手』を見てしまったんだわ、あたし。
一瞬「しまった」と思った。そう一瞬だけ──
瞬後、そんな反省も目に飛びこんできた光景によって軽く吹き飛ばされてしまった。
あたしは無言のまま身を乗り出し勢いよくキョンの左手をひったくった。
テキストが音を立ててあたしの机に落ちる。その音に教室の何人かがこちらを振り向いた気配がした。けれど今はそれどころじゃない。
「おい、ハルヒ?」
キョンのうろたえた声。それにも構わずあたしはキョンの左手を凝視続けた。
「なんで──」
あたしはうわ言のように呟く。
「なにがだ」
自身を持ち直したキョンが、そのうわ言に文句をつけてくる。確かに意味不明だろう。突然左手をひったくられて、まじまじとそれを見られ、終いに「なんで」じゃ。
でもあたしは今それしか言いようがないのだ。
はたと気付きあたしは自分の左手を見やった。
見える。まだ赤い糸はしっかりあたしの小指に巻きついている。
キョンの左手と自分の左手を交互に見て、またぽつりと「なんで」と繰り返した。
「……どうした? ハルヒ」
キョンはあたしの様子を訝っている。さっきより声に険がないのは本気で心配し始めているからだろう。
あたしはようやくキョンの左手を解放した。
キョンは拘束を解除されたのに、しばらく左手をその場に留めていた。
あたしはその左手を放心状態で見つめ続ける。
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで──
キョンの左手の静止画のバックに「なんで」が無限リピートし続ける。
その左手が動いた。今度はあたしの目前で左右に振られる。
「もしもし、ハルヒさん?」
「──なんでもない」
そこで糸がぷつりと切れたマリオネットのようにあたしは机に突っ伏した。
あまりにも衝撃が大き過ぎて「なんで」の次が考えられない。脳がオーバーヒートを起こしかけている。
キョンはあたしの様子をしばらく窺っていたけれど、予鈴がなったのを機に自分のテキストを拾い上げ、前に向き直った。
もうすぐ本鈴だ。岡部が入ってきてSHRが始まる。けれど起きあがる気にはまったくなれなかった。
さっきよりも脳内リピートは収まっていた。でも空回りし続ける思考の上を「なんで」という一言だけが滑っては落ちていく。
なんで、
なんで──
なんでキョンの小指には赤い糸がないの?
一限のリーディングの授業で自分の和訳の番がきた頃には、「なんで」の嵐もなんとか鎮静化していた。
キョンの予測通り当てられたあたしは勿論その場で難なく訳して、問題なし。
あたしの前に当てられたキョンの方は、例の一文でグダグダな訳をしていて、若い英語教師を困らせていたけど。
あたしは自分の役目が終わるとテキストを机に置いて、ぼんやりと教室内を眺めた。
横目でちらりと阪中を見る。机に置かれた左手から赤い糸。
その視線を少しずらすとまだ一限だというのに居眠りしている谷口の左手からも赤い糸。
黒板の方を見ると教卓の前の席でテキストをめくる国木田の左手からも赤い糸。
勿論テキスト片手に説明する若い英語教師の左手からも赤い糸。
教室内にはここいる人間一人一人の左手の小指から延びた赤い糸が行き交っていた。
けれど。
視線を目の前の背中に戻す。
頬杖ついているキョンの左手の小指だけに赤い糸がない。
なぜ──
あたしはさっきよりは幾分落ち着いた頭で、この重大な事実と向き合うことにした。
土曜からあらゆる人の赤い糸を見てきたけれど、赤い糸がない人間はキョンが初めてだ。
赤ちゃんにでさえ赤い糸がついていたというのに……
キョンには運命の相手がいないってこと?
でもあの谷口にでさえ赤い糸がついているというのに?
なんか納得いかない。感情論を抜きにしても、なんかこう、その答えはしっくりこないのだ。どこか頭の片隅で『ソレハチガウ』と訴えかけている。
もしかして、あたしはとうに答えを手にしているのではないのかしら。
古泉君の残した小指の謎みたく、どこかにその答えを置き忘れているだけで──
あたしは赤い糸についてのことを振り返った。
赤い糸。左手の小指。あたしにしか見えない。実体がない。天に上っていく糸。まだ生まれていない。赤ちゃんの糸。みくるちゃん。鶴屋さん。『塞翁が馬』。老人。老人の糸。地にもぐる糸。生き別れ。人間以外。糸がない。
つまりキョンは人間じゃないってこと?
あたしは回想を一時停止して目の前の背中をまじまじと眺める。
いや、違う。あたしは頭を振った。キョンはただのSOS団の雑用係だ。それ以外の何者でもない。
だから──答エハソレデハナイ。
再び記憶の水面に自分の意識を漂わせる。今度こそ見落とさないように、隅々まで凝らして。
赤い糸。赤い縄。小指と小指。足と足。韋固。変えられなかった運命。『異世界人』。『外部』と『内部』。カオス理論。メビウスの輪。『未来予測』──
宛てもない連想ゲームの末、何かに近づいた予兆がした。
そう、『未来予測』。
──未来を知った時点でその未来も変わる
──今現時点で起きていることがすべて未来に影響しているならば、『未来を知る』ということも未来に影響する
──赤い糸は確認しに行ったことで糸の先を変えてしまう
──赤い糸を認識する前は確かにつながっていた相手が、認識した直後別の誰かに換わってしまい、それを辿るとまた別の結果が作られる
あたしが見える赤い糸は『韋固の赤い縄』とは違って、行き先をころころと変えている。だから糸の先に辿り着けない。
でもやっぱり、答エハソレデハナイ。それはまだ答えの一歩手前なのだ。
逆に考えればあと一歩のところまできている。もどかしくてジリジリと胸が焼きつく。
あたしは古泉君と話した『未来予測』について考え巡らす。
今一瞬一瞬起きていることはすべて未来に繋がっていて。未来は──運命は『今』の事象すべてで決まるけれど、その運命を知るとまた別の運命ができるということで。次々と別の運命が書き替えられて、永遠に書き替えつづけるから──
だから、赤い糸の先には永遠に辿り着けない。
赤い糸の先は一生見えてこない。
糸の先の運命の相手は見えない。
──見えない?
「あ!」
その声はそんなに大きくなかったのに、ちょうど授業の途中に舞い降りた『間』に発したためか、遮るものもなく教室内に響き渡った。
前触れもないその一声に全員こちらを振り返る。
あたしは顔を赤らめた。
気まずさからではなく、たった今思い至った答えが自身を沸騰させる。
クラスメイトの注目を浴びながら、あたしは誤魔化すことも弁解することも無視することも忘れ、赤い顔のまま目線をゆっくり泳がせた。
と、こちらを振り向いているキョンと目が合う。
その途端、このまま爆発してしまうんじゃないかと思うくらいの勢いで全身に熱が帯びていった。
キョンはあたしに怪訝な目を向けながら、声に出さず唇を「どうした?」という形に動かす。
それにあたしはなんとか──でも我ながら情けない上擦った声で「なんでもない」と返し、そのまま机に突っ伏した。
恥ずかしい。ものすごっく恥ずかしい。
教師はいきなり場違いな声を発し、赤面し、そのまま突っ伏してしまった生徒をどう対処すればいいかわからなかったらしい。少しうろたえながらも、そのまま放置して授業を再開した。キョンもそれに応じ前に向き直った気配がした。
外界はゆっくりと通常を取り戻していく。けれど、あたしの内面は大混乱だ。
あたしは暗い視界の中、歯噛みした。
やられた──
なんか悔しい。なによこれ。こんなあっさり分かっちゃうなんて。この赤い糸、迂闊すぎない?
とりとめもなく赤い糸に対して不平不満を並べる。自分でも何に対して不服なのかよくわからない。
まさかこんな形で自分の運命を知ることになるなんて。
悪い結果でなかった。むしろ手放しで喜ぶべきなのに──なぜかあたしは素直に喜べない。
ずっと悪い方ばかり先回りして考えていたから、この結果をあたし自身持て余しているのかもしれない。
その一方で、今まで頭の中でずっと渦巻いていたものが一気に一つの形に納まってしまい、なんとなく寂しさにも似た感傷が胸をよぎったのも事実だ。
パレードが終わった後に感じる一抹の寂しさ。
まるで憑き物が落ちたみたいな感覚。
あたしは何か思い立って、頭を少しだけ動かし自分の左手を一瞥した──
(え──?)
今度はさっきのようなへまはしなかった。でもしっかり驚いた。これが驚かずにいられようか。
自分の左手の小指をしばらく凝視する。
これは夢かしら。それとも今までが夢だったのかしら──そう思わずにいられなかった。
赤い糸が、消え失せていた。跡形もなく。
あたしは恐る恐る頭を持ち上げ、教室を見回す。
今は出席番号二十七番の男子が自製の和訳を披露していた。そいつの左手にも、いや教室内の全員の左手から赤い糸が消えていた。もちろん、教室の外から赤い糸が横切ることもない。
教室はすっかり先週の金曜日まで見ていた『いつもの風景』に戻っていた。
体を起こし、一度確認するようにぐるりと教室を見渡して、それから前の席のキョンに視線を止めた。頬杖ついた左手からはやはり赤い糸は垂れ下がっていない。
消えてしまった──いや、とうとう見えなくなってしまった。
あたしは呆然と自分の左手の小指を見つめた。
確かにこの指に赤い糸は絡まっていた。突然自己主張したかと思えば、己の行きつく先をまったく示してくれず、あたしの心を掻き乱すだけ掻き乱して、答えを示したと思ったらさっさと消えてしまった。
──赤い糸はあたしに何を伝えたかったのかしら。
ふと頭の中にこんな考えが降ってきた。
なぜ赤い糸はあたしに答えを示したら消えてしまったのだろうか。
まだ謎は終わっていない。これを解くにはあと一ピース必要だ。どこかでなにかを見落としている──
『小指と小指を繋ぐ赤い糸には別の意味がこめられていると思うんです』
『小指が象徴するものを思い出してください』
あたしは古泉君の言葉を思い出していた。
一限が終わって早々キョンがこちらを振り向いた。
朝から顔を合わせているのに、なぜか改めて久しぶりに会った気がする。
そんな感慨に耽っていると、キョンは顔を顰めて、「ハルヒ、お前TPOって知ってるか?」と聞いてきた。
そんな暗喩を込めた言い方しなくてもキョンが言いたいことはわかっている。
でもあえてあたしは知らないフリをした。
「わかってるわよ。Time、Place、Occasionの頭文字のことでしょ」
「いや、俺の言いたいのはそう言うことじゃなくてだな」
「じゃあ、どういうことよ。はっきり言いなさい」
ここでキョンは溜息一つ。相変わらずわざとらしい。
「お前今日は朝から変だぞ」
「そう?」
「自覚してくれ」
「別に。いつも通りよ」
と、まったく取り合わないあたしにキョンは再び溜息。
そんなに溜息吐いたら幸せ逃げて行くわよ。
「とにかく」とキョンは気を取りなおして改めて諫言してきた。
「突飛な行動は時と場所を考えてくれ」
そう言い終えると自分の役目は終わったとばかりに、体を前に戻そうとした──その襟首をあたしは掴む。
キョンは「ぐえ」と呻き声をあげた。ぱっと襟首から手を離すと、再びあたしに向き直った。
「ハールーヒー。お前俺の言ったこと聞いてたか?」
「聞いてないわよ、そんなこと」
「……おい」
キョンは恨めしげな目を向けてくる。けれど構わずあたしは自分の左手をキョンの目の前に開いた。
「手」
「? 手?」
「左手貸しなさい」
「は?」
キョンは首を傾げつつも、あたしの『左手』と言う言葉に反応して、思わず少しだけ左手を持ち上げた。
その左手を──左手の小指をひったくり、自身の左手の小指を絡める。
ぎょっと目を丸くするキョンの目前であたしは早口であの有名な歌を口ずさんだ。
「ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのーます」
言いきって指を解く。解く間際に一度絡めた小指に力をこめた。なんとなく。
キョンは呆気に取られていたが、解放された自身の小指を見つめ、
「なんなんだ一体?」
とあたしに率直な疑問を投げかけた。
あたしはそれには答えず、「約束守りなさいよ」と厳命する。
「破ったら針千本どころか百万本なんだから」
キョンはしばらく考えこんでから「ああ」と呟いた。何かを思い付いたらしい。
「約束って、妹と遊びに行くとかいうあれか?」
「違うわよ──ううん、それもあるけど……とにかく! 約束だからね!」
あたしは自分でもどういったら言いかわからなくなってきて、破れかぶれにそっぽを向いた。
沈黙が流れる。
しばらくしてキョンが釈然としないまま呟くのが聞こえた。
「じゃあ一体俺は何を約束させられたんだ?」
あたしはそれに心の中で答えた。
決まってるじゃない。
──永遠をよ。
──終わり