──第2章──

「今年はクリスマスパーティやらないんだってな」
 次の日、俺は後ろの席のハルヒに話しかけていた。最近はどんなにケンカをしても次の日
になれば大抵は機嫌が直る。だから昨日の理不尽な攻撃だって、いちいち理由など聞かな

いのだ。ハルヒが思い出して痛い思いをするのはこっちだからな。
「やりたい?」
 なぜかハルヒの目が輝いていた。サンタの来訪を心待ちにしている子供のような顔をして
いる。
「昨日、古泉から中止になったって聞いたぞ? そう決めたのはお前じゃないのか?」
「みんなで集まってのクリパはやめようって言っただけよ。今年はみくるちゃんの受験もあ
るし、古泉くんだって忙しいみたいだからね。有希は別にやらなくてもいいって言ってた。
みんなあんまり乗り気じゃないみたい」
 古泉に用事? そんなの昨日は聞いていないぞ。ハルヒがおとなしくて寂しいとかなんと
か言ってたのに実は自分で断ったんじゃねえか。
「だからぁ……今年はあたし達だけでクリパやらない?」
「はぁ? SOS団ではやらないんじゃないのか?」
「だーかーらぁ! あたし達、あんたとあたしでクリパしないって言ってるの!」
 怒りながら照れたような表情でハルヒは口を尖らせて、窓の外に視線を向けた。
「ああ、それって俺と……」
「どうせあんたなんかと一緒にクリスマスを過ごしたいなんて女子はいないでしょ。感謝し
なさい。今年は一人寂しいクリスマスを送らなくてすむんだから。こんなチャンスは一生に
何度もないんだからね。あんたに拒否権はないわ。いい? 24日は部室でパーティーだか
らね。ちゃんとそれなりの準備をしてくること。以上」
 ハルヒは早口で一気にまくし立ててそっぽを向いた。
 そもそもそれを言ったらお前も一人だろ。それに俺は妹のせいで毎年結構賑やかなんだが
な。なんて水を差すようなことは言わずに、誘ってくれたことへの感謝の気持ちを表すこと
にした。
 少し離れたところで谷口がニンマリと気味の悪い笑顔を作っていた。
 後でぶっとばす。
 そう決意しながら、いつまで経っても赤くなったままこっちを向かないハルヒの横顔を眺
めていた。


 放課後、今日は部活がないので俺はやることがない。
 こういうときに何か時間を潰せるような趣味を作っておくべきだった。これからの俺の課
題だ。
 自宅に戻ると門の前で古泉が待ち伏せしていた。
「やあ、こんにちは」
「もうすぐこんばんは、だけどな」
 制服に通学鞄という完璧な下校途中の格好だ。いつかのときを思い起こさせる。
 あの時、古泉に連れられて初めて閉鎖空間というものを目の当たりにし、ハルヒという存
在が世界の中心だと聞かされた時から、俺は自分のいる世界の法則がどんどん信用できなく
なっていった。
 俺の中での世界の法則はあのときから崩壊したままだ。
「あなたに伝えておかなくてはならない事態が起きまして」
「今度はなんだ。またハルヒが何か起こしたのか?」
「逆です。ついに涼宮さんの能力がなくなった可能性があります」
「なんだって? 昨日力が弱くなってるって聞いたばかりなのによ」

「僕たち『機関』が数名のTFEIと接触を持っている事は以前お話しましたよね? その
中の1人から有力な情報を得ました。どうやらつい先ほど、涼宮さんから断続的に噴出して
いたはずの情報フレアが、全く検出されなくなったということです」
 どんな状況になっているのか想像でしかわからないが、イメージ的にはハルヒのオーラが
出なくなったということだろうか。俺は一度もそんなものを見たことはないが。
「ここ数週間前から観測される情報フレアの量が極端に少なくなっていたそうです。ちょう
ど今年の文化祭が終わった頃からでしょうか」
 文化祭が終わった頃から……。SOS団が活動しなくなった頃からとも言える。
「そうするとお前の超能力がなくなったってことか?」
「いえ、そうではないですけどね。過去に涼宮さんの影響で生まれたと思われる物はこれか
らも現存していくようです。現に長門さんたちTFEIや、超能力者の僕たちがまだここに
いるわけですから。ただ、新しくそういう存在を生み出さなくなった、もしくは見つけ出さ
なくなった可能性があると言ったほうがいいでしょうね」
「つまり、これからはハルヒが無茶な願い事、例えばネコに言葉をしゃべれとか言っても、
俺たちの前に、偉そうに日本語を話すネコが現れることがないっていうことだな?」
「そうです、これからは涼宮さんの望んだことは叶わなくなる可能性があるということです。
もしかしたら来年はあなたと同じクラスにならなくなるかもしれませんし、彼女自身、受験
に落ちてしまう可能性もありますね」
 ハルヒのわがままが世界に通用しなくなるってことか。それはハルヒが成長したという証
なんだろうか。
 そもそも、あいつの願ったことがなんでも叶ってしまうなんてことが、許されるべきでは
ないと俺は思うがね。
「ですが、いくつか不可解な点もあります。それは僕が肌で感じとれる涼宮さんの能力は、
確かに弱まってはいるものの、決してそれがなくなってはいないように感じるからです。な
ぜと聞かれても答えられません。そう感じるからそうなのです。僕の感じる限りでは、情報
を生み出す力は完全にはなくなっていないと思います」
 つまりTFEI達の意見とお前達の意見が微妙に食い違ってるってことだな。
「それと朝比奈さん達未来人がまだ帰らない点です。彼女達は未来の固定化を目指している
のですから、涼宮さんの能力が消滅すればその瞬間に未来が固定化され、この時代に用はな
くなります。もちろんそれは彼女たちの理論が正しければの話ですが。まだ朝比奈さんがこ
こにいるということは、まだこの時代でやらなければいけないことが残っているということ
で、涼宮さんの能力が完全には無くなっていないという意味になるのです」
 古泉の顔が少し暗い。俺も自分の顔が見れないからわからないが似たようなものだろう。
なんでこんなに寂しい気持ちになるんだ。ときどき自分がわからなくなる。
「近いうちに僕らのお別れのときが来るかもしれませんね。そのときはお別れパーティーで
も盛大に開きましょう」
 古泉が手を広げてオーバーに悲しさを表現している。
「おい、もしそうなったとしても、朝比奈さんや長門はまだしも、お前は別にいなくならな
くてもいいんじゃないか?」
「お忘れですか? 僕は元々転校生ですよ? 生まれも育ちもここではありません。今は『
機関』が資金を提供してくれていますからこの街に住んでいますが、『機関』が解散したら
僕も帰るべきところに帰らなくてはなりません。……これ以上は機密に関わりますから言え
ません。すいませんけど」
 古泉が軽く頭を下げたタイミングに合わせてか、いつぞやの黒塗りタクシーが、手を挙げ
てもいないのにピタリと古泉の背後に止まった。
「長い話につき合わせてすいませんでした。涼宮さんとの付き合いはこれまでどおり普通に
接してください。あなたが涼宮さんと仲良くしていることは決してマイナスではありません
から。それでは、おやすみなさい」
 古泉を乗せたそのタクシーが夕焼けの町へと飲み込まれていった。

 その日の夜、俺は宿題も無いのに珍しく机に座って考え事をしていた。古泉の話を聞いて
いたらそろそろ自分も将来のことを本格的に考えないといけないような気がしてきたからだ。
 『進路希望調査票』と書かれた一枚の紙切れ。さて、この紙切れに何を書こうか。
 将来のことを考えろといったって、子供のときのようにパイロットになりたいだの、プロ
野球選手になりたいだのと、自分の夢を書け、というものではないことは確かである。
 現実に手が届く範囲で、さらにこれから自分がそのために努力をするという前提で考えな
くてはならない。来年、受験を受けるのか受けないのかは少なくともこれで決まる。
 ハルヒの能力がなくなって、俺の周りが以前知っていたような普通の日常に戻っていくと
なると、いつまでも夢見心地ではいられない。もうファンタジーの世界の主役達ではない。
 ハルヒの面倒を見てばかりもいられないのだ。俺には俺の将来がある。それもそんな先の
未来ではない。
 そして、まあ、俺なりにいろいろ考えた末に得た結論は進学である。
 適当に大学と書いておけばもう4年間考える猶予期間が与えられる。そんな楽観的な視野
しかもっていないわけではないが、とりあえず俺は『大学進学』と書いた。
 たったの四文字。
 しかし重い四文字だ。今から勉強して間に合うのだろうか。
 朝比奈さんを見ているとそれほど大変じゃないような気がしてくるが、実際は彼女だって
相当な勉強をしているはずだ。
 あと、理系か文系かを選ばなくてはならないのだが、俺の能力的には文系だろう。しかし、
ハルヒの希望進路はきっと理系だ。
 もし理系にするのであれば、これから猛勉強しなくてはいけない。
 ……別にハルヒに合わせる必要はないし、そうするつもりもないんだが、もしそうならば、
である。

 今年はクリスマスパーティーどころではないんじゃないか?
 それに親が塾に行け行けとそろそろ本格的にうるさくなってきた。今度の冬休みも冬期講
習に行けとうるさかった。なんとか言い聞かせてごまかしたが、もうすぐ俺はごまかしの効
かない三年生だ。さーて、どうするか……。
 そんなとき、どんなときでも自分が遊ぶことしか考えていないであろう妹が、いつものよ
うにノックもせずに俺の部屋に飛び込んできた。
「キョンくーん、お客さんだよー」
 俺に客? 誰だ? 時間はもう9時を過ぎている。
「ユキー!」
 ユキ? ……ああ、長門か。どうしたんだいったい、こんな時間に。


「読めなくなった」
 玄関の扉を開けると、開口一番、長門は意味不明なことをつぶやいた。
「……読めなくなった?」
「そう」
 普段、感情を表に出すことを苦手とするこの宇宙人は、さも自分がおかしなことは言って
ないと訴えるかのような表情で、まっすぐ大きな瞳をこちらに向けた。面白いジョークを言
いたい様子ではなさそうだ。
「どういう状況かよくわからんが……とりあえずあがれよ」
 長門は無言のまま靴を脱いでしずしずと俺の後をついてきた。もちろん、いつものように
制服姿だ。

「お茶どーぞ! えへへー」
 妹がお茶と煎餅菓子を持って俺の部屋にやってきた。いつもはこんなことやれと言っても
絶対にしないはずなのに、一仕事終えたような顔をして、その代償としてここに居座ろうと
いう態度である。
「おい、大事な話があるんだからあっちいってなさい」
「えーっ、わたしもここにいるのー!」
「ダメだ、向こう行ってなさい」
 妹を何とかなだめごましながら、俺たちは長門の前でしばらくいつもの兄妹ゲンカを披露
することになった。
「キョンくん有希と何しようとしてるのぉ~、くふふ」
「いいからお前はもうそろそろ寝る時間だ。早くお風呂に入って来なさい」
「いやぁ~、あたしもお話したいのぉ~」
「お前が話すことなんてないだろ、こいつは俺と大事な話があるみたいなんだからあっち行
ってなさい!」
 こっちが下手に出ているのをいいことに、全くここから出て行こうとしない。普段ならゲ
ンコの一つくらいかましているところだ。
 その間、長門は出されたお茶にも一切も手をつけず、全くの無言を貫き通した。15分ほ
ど妹とそのやりとりをしていたが、さすがに長門の無反応ぶりに飽きたのか、「ゲームして
くる」といってようやく俺の部屋から出て行った。
 俺は部屋の鍵を念入りに閉めて、長い溜息を1つついた。

「はぁー、すまんな長門。もういいぞ。用ってなんだ? お前がわざわざここに出向くって
ことは、何か大事な用なんだろうけど。夕方古泉が訪ねてきたことと関係あるのか?」
 俺はすっかり冷たくなったお茶を一気に飲み干し、長門の前に胡坐をかいて座った。少し
瞬きをしてから、長門が小さい声で淡々と話し始めた。
「不特定な外的要因によって、情報コードが解読不能に陥った。わたしの情報解析システム
が動作不良を起こしている。直接的情報伝達以外にも、言語読解機能にも同じく支障をきた
している模様。言語中枢機能に働きかけようとするとそれを拒絶する仕組み。伝達された情
報が、文字として認識されると自分の中で変換を拒絶する機能が働き、自動的にその情報が
削除される。言葉を捉えているのに、認識できない状態。単純に言うと、文字が読めない。
書けない。日本語に限らず、全ての言語の文字が解読不能。数字、暗号、その他情報伝達に
使用される物は全て使用不可能。それに伴い、我々が情報伝達に使用している情報コードの
送信も出来なくなった。現在、わたしは情報統合思念体とは絶縁状態にある。だから現状で
は機能回復も不可能。バックアップデータにもこのバグが侵食しているので自己修復も不可
能」
 ようやく話し始めたと思ったら、また今度はえらく長くてわかりにくい話をする。長門の
悪い癖だ。俺の知能レベルも考慮してしゃべりやがれ。
 ようするに文字が読めなくなったと言いたいのか? ついでに宇宙的な交信もできなくな
ったようだ。この辺はどういう作りかよくわからん。

「なんでまた」
「理由はわからない。そうするように改変された」
「改変?」
 改変という言葉に、俺は思わず去年のあの長門を思い出した。片手をクルクル回していた
だけで世界をあんなふうに変えてしまったあの長門の後姿。
 こいつの持っている能力はとんでもないものがある。あのときは世界をまるごと改変しち
まったが、今後は長門だけの改変だとでも言うのだろうか。またなんかおかしな事になって
るな。
 そしてどうもハルヒに直接関係無いところで起きているような気がする。ハルヒがこんな
ことを望むはずが無いからな。だからといって長門がわざと自分をこんな風に改変するはず
も無いだろう。
 それよりわざわざ俺にそんなことを言いにきた理由がわからない。
 長門がどうにもならないことなら、俺にもどうにもならないだろう。文字もコードも読め
なくなったといっても、俺にどうしろというのだ。
 そりゃ趣味の読書が出来なくなって辛いのはわかるが、べつに死ぬわけじゃないんだし、
こんな夜遅くに突然押しかけてくる必要はないんじゃないのか。
 それに俺に相談するくらいなら、同じ仲間の喜緑さんに相談したほうが話が伝わりやすい
んじゃないのか? ヒューなんとかインターフェイス特有の病気かも知れないじゃないか。
「まさかハルヒの仕業じゃないよな」
「違う。誰でもない」
「誰でもないってなんだよ。わからないとかじゃなくてか?」
「そう、わたしが文字を認識できなくなったのは誰の仕業でもない。少なくとも現在わたし
達が認識している存在ではない。別の存在。もちろんわたしや情報統合思念体の仕業でもな
い」
 じゃあ、なんでそんなことが起きるんだよ。お前達は年をとると自然と文字が読めなくな
るような仕様なのか?
 原因はある程度自分でもわかっているようだが、そのことについては触れようとしていな
いな。話したくないのか?
 しばらく沈黙が続いて、俺は何をしたらいいのかわからず、少し困っていた。まさかわざ
わざ遅くにここまで来た相手に、何もせずにこのまま帰れとは言えないし、だからといって
俺が長門に協力してやれそうなことはない。
 しばらく空中の一点に滞在していた長門の視線がピクリと俺の背後へと動き、じっとそこ
にとどまった。振り返るとどうやら俺の部屋の本棚が気になったようである。

 俺が訊くと、長門は何も言わずに立ち上がり、本棚へと歩み寄った。そしてじいっと真剣
な眼差しでいくつかの本を抜き出しては表紙を見て戻し、また抜き出しては戻しを繰り返し
た。
 そういえばタイトルも読めないはずなのに、どうやって本を選んでいるんだ?
 しばらくして、長門の手が止まり、ゆっくりこちらを振り返った。その腕には一冊の本が
抱かれていた。
「こんな本でいいのか?」
 それは俺が小学6年生のときに親からもらった絵本、『星の王子さま』だった。
「これがいい」
 そういうと長門は俺に絵本を手渡したそうとした。
「え? 読みたいんだろ? 違うのか?」
 俺が受け取らずにいると、長門は何も言わずただじぃっと、絵本の表紙を眺めていた。
「そうか、お前読めないんだったな」
 つまりは俺に朗読しろということなんだろう。
 そうするべき、と長門の目が無言で訴えかけてくる。
 そういえばこいつの楽しみって言ったら読書くらいのものだから、それができなくなった
心の痛みは人一倍大きいのだろう。
 誰だって自分の一番の趣味を奪われたら精神的にへこむだろう。
 仕方ない。朗読してやるか。まあ、俺に出来ることといったらこれくらいしかないからな。
たまには長門のためになることをしてやってもバチは当たるまい。
 俺が絵本を受け取り、ベッドに腰をかけて座ると、長門も同じように隣にトスンと腰をか
けた。いつでもどうぞ読み始めて。ということなんだろうか。それにしても密着しすぎなん
じゃないか? 長門のふとももの体温が俺のズボン越しに伝わってきた。
 長門は俺の手元の絵本に視線をじっと傾けたまま止まっている。早く読みたくて仕方がな
いといった様子だ。
 意識している方向が俺と俺と180度違う。
 ふぅ、と一息ついてから俺はゆっくりと絵本を読み始めた。

「星の王子さま……アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ。『六つのとき、原始林のこと
を書いた「ほんとうにあった話」という本の中で、すばらしい絵を見たことがあります……」
 俺が絵本を読み始めると、長門が顔をまたさらにすっと近づけてきて、ふわりと短い髪の
毛が俺の顔に触れた。
 ほのかに甘い花の香りがして、ああ、宇宙人でもシャンプーとかするんだな。シャンプー
するってことは風呂にも入るのか。などと男として誰でも抱くであろう邪な感情に流されそ
うになりながら、俺は邪念を振り払いながら絵本を読むことに集中した。
 しかし、この本は絵本というわりには結構長い内容なので、単に朗読といってもこれがま
たなかなか疲れるのである。
 しかもよく意味のわかりづらい、その上読みにくいなかなかシュールな内容の絵本だ。
 正直、俺自身は子供の頃に読んで以来、読み返したいとは思わなかったし、それほど面白
いとは思わなかった。
 だが、これがまだ絵本でよかった。これが長門の好きそうな、難解な哲学書や大長編のS
F小説だったら、クソ重い辞書を片手に、いつ終わるとも知れない作業に取り掛からなけれ
ばならなくなるところだった。
 まあ、俺の本棚にはそんな難解な哲学書や大長編のSF小説なんざ元々並んでいないので
あって、そのような状況にはどうやっても陥らないのではあるが。
 しかしその本棚の中でも、朗読するのが比較的楽そうなもので助かった。もしかしたらそ
んな俺の心境を考慮に入れてくれたのかもしれないが。
………
……


「『そして、この星が、ちょうど、あなたがたの頭の上にくるときを、おまちください。そ
のとき、子どもが、あなたがたのそばにきて、笑って、金色の髪をしていて、なにをきいて
も、だまりこくっているようでしたら、あなたがたは、ああ、この人だな、と、たしかにお
察しがつくでしょう。そうしたら、どうぞ、こんなかなしみにしずんでいるぼくをなぐさめ
てください。王子さまがもどってきた、と、一刻も早く手紙をかいてください……』
……おしまい」
 やはりわりと時間が掛かった。絵本とはいえ、結構読み応えのある作品だ。それと改めて
読んでみてわかったのだが、子供のときよりはだいぶ内容が理解できるようになっていた。
それでもかなりシュールな内容だとは思うが。
 子供のときに読んだ本を大きくなってから読むと別の作品に感じるというが、まさに今の
俺がその状態だった。
 読み終わってしばらくしても長門はじっと絵本を凝視したまま、固まっていた。
「おわったよ、長門」
「そう」
 俺の言ったことをようやく理解したのか、ずっと俺の隣に密着していた少女は、少し寂し
そうに顔を上げて体を離した。

「おもしろかったか?」
 長門は俺の質問に小さく首肯した。そしてまた部屋の中に無言の空気が訪れた。

 無言……無言……。
 いかん、話すことがない。このままではまた別の本を読んでくれと言われかねない。なん
とかして俺は話しかけるきっかけがほしくて、思いついたことを口にしていた。
「そういえば文字が読めなくなったって言ってたけど、絵はわかるのか? 絵の意味とかは
お前に伝わっているのか?」
「わかる。おそらくそこまで原始的な情報伝達方法には規制をかけられなかった」
「そうか」
「そう」
 ……。
 …。

 いかん……。また会話がなくなった。
 俺はどうもこの無言の空気というものに耐性がない。長門は平気なんだろうが、俺はこう
いう空気が大の苦手だ。それと仮にも女の子と自分の部屋で二人きりの状況であるというこ
とも、俺の緊張を張り詰めさせる大きな要因になっている。
「なあ、長門。お前にとって本を読むってのはどういうことなんだ? 情報なんとか体って
のはありとあらゆる情報の塊なんだろ? 人類が考え付くような物語なら、お前が本を読む
までもなくわかってることなんじゃないか?」
 まるで長門の趣味が意味の無いことのように聞こえるかもしれないが、前から感じていた
純粋な疑問だ。
「わたしが意味もなく本を読むのはいけないこと?」
「あ、いや、そういうわけじゃ……」
 俺の質問を少しいじわるに感じたのか、珍しく突っかかってきた。
「たしかに、わたしが読書という行為によってあらたに獲得した知識はほとんどない。情報
の獲得のためなら文字情報を解さずとも、直接統合思念体から必要な情報を送信してもらえ
ばいいだけのこと。データを直接受け取った方が余計な誤差が生まれずに済む。だが、あえ
て文字情報を介して間接的に情報を得るという行為を選ぶのは、文章読解という行為がとて
も原始的でありながら奥深く、単純な正解は存在しないから。なぜなら言葉は人類が生み出
した一種の情報生命体であり、絶えず誕生、変化、消滅を繰り返し、正しい文章の構成には
常に新しい言葉を吸収し続ける必要があるから。また、こちらから間接的に情報を伝えると
いう行為は、わたし達にとっては直接的伝達よりも難しい。文章の構成には無数の可能性が
あり、その中から一つを選択して文章を構成するとき、そこに生じる不思議な感覚がおそら
く人類が感じるところの娯楽的快楽、知的好奇心の充足に近いものであるとわたしは判断し
ている」
「わかった、もうわかったから」
 延々と説教をくらっているような気分だった。長門は怒っているのだろうか。それとも俺
にもっと本を読めという意味なのだろうか。

「人間の行為を模倣してみることに楽しさを感じるのはどの情報端末でも同じである」
「別にお前の親玉からそういう風にしろという命令ではないんだな」
「そう」
 なんだかわかるようなわからないような、とにかくこいつにとっての読書ってのは簡単に
いうとやっぱり趣味ってことなんだろうな。

 長門がようやく重い腰をあげて帰ろうとしたとき、外は雪景色に変わっていた。
「もう遅いし家まで送るよ」
「いい。帰れる」
「だって、お前傘持ってきてないだろ」
「大丈夫」
「いいからいいから」
 言葉では強がりながらもそれほど嫌そうではない長門の仕草が少し可愛く思えた。
 長門に傘を手渡した時、なんとなく長門の顔が期待していたものと違うと不満さを訴えて
いるように見えた。まさか相合傘を期待してたわけじゃないよな? 傘も二本あるんだしそ
んな必要はないだろ。

「ところで明日から自分の名前聞かれたときどうするんだよ。文字が読めないってことは書
けないって事だろ?」
 俺の声が雪の降りしきる街中に静かに響く。
「そう」
「じゃあ教えてやるよ」
 そうして、俺は雪の降り積もった地面に足で字を書いた。
「こっちが……『長門』で、こっちが……よいっしょ『有希』だ」
 雪の上に書かれた有希という偶然出来たダジャレが、なんだか自分で書いてておかしくな
った。少しニヤケ笑いした俺の顔を見て、長門が不思議そうに首をわずかに傾けた。
「あ、でも……文字が認識できないんじゃこれも覚えられないか?」
「できる。もう覚えた」
 そういうと、長門はすばやく足を使って俺の字の隣に名前を書いた。
 長門は一目でその字を覚えていた。覚えたは覚えたが……。ものすごい覚え方をした。
 長門の書いた『長門有希』は、太くて角張ってややゆがんでいた。それは俺がさきほど書
いたときと同じように、ハネ、ハライ、トメに至るまで、数秒前の俺の再現をしていた。つ
まり、完璧に俺の字を真似て書いてみせたのである。それもコピー機のように機械的に。全
く同じ形をした文字が2つ、雪化粧の上に並んでいた。
 知らない人が見たら魔法か超能力にしかみえない。
「お前……」
「文字は認識できない。だから写実的にそのまま写すしかない」
「だったらもっと丁寧に書いてやればよかったな、ははは」
 俺は足で雪の上の文字をかき消しながら少し笑った。
 長門はやっぱり俺が何がおかしいのかわからなかったようで、やはりポカンとした顔で俺
の顔をじっと眺めていた。

 12月23日、クリスマスイブ前日の祝日。
 世間が完全にクリスマス一色に染まり、クリスマスの空気に浮かれている中、俺もハルヒ
に無理矢理誘われたにしろ、初めての女の子と二人きりのクリスマスに、この上ない期待を
していた。少しくらいの興奮を覚えてもそれは健康的男子高校生なら正常なことだろう。
 だからそれなりにきちんとした形で、クリスマスプレゼントの一つくらい買ってやらない
とバチが当たるよな。
 そんなわけで俺は、昨日降った雪が解けて路面がグチャグチャになっている中を、駅前の
デパートに向けて自転車を走らせていた。
 ハルヒはどんなものだったら喜ぶだろうか。アクセサリーみたいなものでもいいのだろう
か。それともあいつのことだから変なもの、たとえばどっかの島の呪術師が持っている干し
首飾りなんかの方が喜ぶのかもしれないが、俺はそんなもの買いたくない。
 いろいろ考えた末に、アクセサリーとかはもらった側は重苦しいかもしれないし、花とか
はさすがにキザ過ぎるし、という理由で財布にした。小物だったらもらって困るということ
も少ないだろう。
 帰り際、長門のことを思い出し、本屋に寄って長門の分のクリスマスプレゼントも買って
やることにした。俺はいつからこんなに世話症になったんだか。

 そしてその夜……。
 やはりというべきか長門がまた俺の家に訪ねてきた。
「今日もまた絵本を読んでもらいたいのか?」
「……」
 長門が無言でうなづく。
「でも俺の家には絵本とか他にないぞ。だから……」
 といいかけたところで長門が持っていた本を差し出してきた。……やたらと用意がいいな。
今日の絵本は……ミッフィーちゃんかよ! なんでお前こんな絵本持ってるんだ!?
「別に内容に重要な意味はない」
 そういうと長門はそそくさと俺の部屋にあがっていった。
 そしてさっそく長門が昨日と同じポジションに腰掛けて、隣の席をポンポンと叩いた。
 俺は読むとは言っていないのだが……仕方ない。俺は長門の隣に腰掛けた。
………
……


「明日も読んでくれると嬉しい」
 帰り際、長門が俺の袖を引っ張りながら甘えてきた。そんな上目遣いをされたら俺の予定
が狂ってしまいそうだ。
 しかし、明日はそうも行かない。
「すまない、長門。明日の夜はハルヒと約束していたんだ。それが終わってからでよかった
ら、本を読んでやるからさ」
 長門は無表情の中に寂しさを居合わせたような表情をして、小さくうなづいた。
「わたしの家で待ってる。出来るだけ早く帰ってきて」
 そういうと長門は即座に振り返り、自分のマンションの方へと歩き出した。

 そしてやってきた12月24日、俺を酷評することしか知らない通信簿が担任の手から手
渡され、親にどうやって言い訳をしようかと考えながらも、明日から始まる冬休みと今夜の
クリスマスのことを考えればそれも瑣末なことに思えてきた。

「さ、部室に行くわよ!」
 俺はハルヒの元気な声で重い空気を吹き飛ばされた。やっぱりコイツといると楽しい。ど
んなときも明るいし、常に前向きだからだ。そりゃときには我侭で自分勝手で人の意見なん
てミジンコ並にしか思っていないところにどうしようもなく腹が立つこともある。
 それでもハルヒはいつまでもそうであってほしいし、またそうでないとハルヒ自身がアイ
デンティティーを失ってしまうだろう。

「うーん、この冷蔵庫やっぱり小さすぎて駄目ね。今度もっと大きいのを大森電気店からも
らってこないといけないわ」
 ハルヒは冷蔵庫の中の物を片っ端から片付けながら、冷蔵庫に向かって文句を垂れていた。
その手には直径30センチ以上はある大きなケーキが抱えられている。
「それ、まさか自分で作ったのか?」
「そうよ、昨日からいろいろ準備したりして大変だったんだからね。まあ、こういうのが結
構楽しいんだけどね」
 他にも七面鳥やパーティーサイズのピザ、さらに去年と同じく、鍋まで作るつもりらしい。
ネギや白菜などが大量に机の上に乗っかっていた。いったい何人分作る気なんだ?
 クリスマスで浮かれていたのは自分だけじゃなかったようだ。ハルヒはハルヒで俺との二
人だけのクリスマスをこんなにも楽しみにしていたとは。なんだか照れくさくなってくる。
 
 料理が全部できたことろでシャンメリーを空けて乾杯をした。
 それからボードゲームをしたり、話をしたり、プレゼント交換をしたり、いわゆる一般的
な恋人同士のクリスマスというものを楽しんだ。別に付き合ってるわけではないが。

 俺はふと長門のことを思い出していた。今頃どうしているんだろうか。どうせ、一人で家
でカレーでも食ってるんじゃないだろうか。それならここに呼べばいいのに。ハルヒはどう
して長門を呼ぼうとしなかったんだろうか。
「何よ、なんか考えてるような顔しちゃって」
「え……い、いや、そんなことないぜ?」
 俺は慌てて机の上で冷たくなったピザに手を伸ばした。
「雪でも降らないかしらね……」
 ハルヒが窓の外を眺めながらつぶやいた。前ならハルヒがそう願えば降ったかもしれない
けどな。でも天気予報では今夜の天気は晴れ。降水確率0%。到底雪は降りそうにない。

 それからグダグダと時間を潰しながら過ごしていたが、気づいたらもうすぐ11時を過ぎ
そうな時間になっていた。
「なあ、ハルヒ。もうこんな時間だぞ。帰ろう」
「え? あ、うん……やっぱり、帰るの?」
 そりゃそうだ。帰らないならどうするんってんだ。まさかこんなとこに泊まるわけにはい
かないだろ。
 それに俺には長門との約束があった。長門をずっと待たせているのだ。そろそろ帰らない
とあいつに悪い。
「バカ、何もここに泊まるなんて言ってないじゃないバカ」
 ハルヒは俺に何かを察しろと言わんばかりの顔で言葉を吐き捨てた。
 じゃあ、帰らないでどうしろってんだよ。全く。

 途中までハルヒを送った後、俺は向きを大きく変えて長門のマンションに向けて自転車を
走らせた。
 あいつは自分の家で待ってると言っていた。きっと長門のことだから何時になってもずっ
とそこで待っているんだろうな。だから急いで行ってやらないといけない。

 俺の鞄の中には今日のために買った絵本があった。
 長門はクリスマスプレゼントなんてもらったことはないだろうから、驚くかもしれない。
長門の驚く顔なんて見たことはないが、この絵本を見たらお礼に驚いた表情を見せてもら
いたいものだ。それくらいいいものだからな。

 遠くに白いマンションが見えてきたところで、俺は自転車の速度を落とした。
 近くの公園に自転車を止めようと、辺りを見渡していると、マンション前の電灯の下に二
人の人物の影が映っていた。
 片方の小さな影は長門だった。もう一人は遠くでよくわからない。どちらもうちの高校の
生徒のようだが……。
「すまん、長門。遅くなって。外で待ってることはなかったのに。あれ? あなたは……」
 遠くから見えたもう1つの影は喜緑江美里さんであった。
 喜緑さんはそれまで長門に向かって何かを話していた様子だったが、俺が来ると同時に会
話を停止した。
「えっと、こんばんは……」
 しかし、俺が声をかけたことを喜緑さんは完全に無視した。聞こえなかったのかな? い
や、そんなはずは無い。この人も長門と同じタイプの宇宙人なのだ。ただ派閥が違うだけで。
 じゃあ、なぜ俺は無視されなければならないのだ。
 少しむっとしていると、長門に向かって喜緑さんがまた話しかけた。
「長門さん、どうして統合思念体の命令を無視したの? もう約束の時間は過ぎています」
「……」
 命令? 無視?
 何のことだ。さっぱりわからん。長門にそんな命令が下っていたのか?
「わたし達の役目は終わったんです」
「終わった?」
 俺は二人の会話に割り込むように声をかけた。
 喜緑さんがようやくここで俺の声に反応し、ゆっくりとこちらを向いた。
「かつて涼宮ハルヒから発生していた異常な情報噴出は、現在全く観測されていません。こ
れに伴い、情報統合思念体が協議をした結果、涼宮ハルヒの観測を新たな段階へ移行させる
ことに決定しました。一度今までの情報端末を全て回収し、これからの観測は新たな数名の
情報端末で傍観的に行うことになりました」
「移行? 何のことかよくわからないけど、長門もここには残れないってこと?」
「ええ、そうです」
 喜緑さんはまるで俺には関心がないがごとくそっけなく答えた。
「ちょっと待ってくれ。なぜ長門を残さないんだ? ハルヒと直接接点を持ってるんだぞ?
主流派の重要なキーパーソンじゃないのか? それにしてもなぜ今になって……」
「以前、長門さんは大変な暴走を起こしました。その件についてはあなたもよくご存知のは
ずです。しかし今までは長門さんがいなくなることで誘発されるあなたや涼宮ハルヒの暴走
を恐れて、処分が見送られていました。ですがその涼宮ハルヒから情報噴出が検出されなく
なった今、安全面のことを十分考慮に入れた上でわたし達を処分することが決まりました」
 わたし達、というからには喜緑さんも含まれるのだろう。
 処分……おそらくここでは消滅させることを意味している。以前長門も話していた事が現
実のことになろうとしているのか。
「喜緑さんだって自分が無に消えるのは嫌じゃないのか?」
「わたし達は対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェイス。有機生命体に対
して直接コンタクトを取れない情報統合思念体に代わり、情報を集めるために使わされた存
在。あくまで情報統合思念体の指示に従わなくてはなりません。命令に嫌とか、困るとかは
ありません。ただ一つ、そうすべきであるというだけです。それにわたし達はもう昨日から
強制回収プログラムが実行されています。そのような個人的な行動は一切とることはできま
せん」
 何を言ってるんだ……。長門からは一切そんな話は聞いてないぞ。いきなり今日になって
そんなことを言われても困る。

「長門がいなくなったらマズイだろ」
「どうして? 統合思念体はわたし達以外にも数体の端末を置いて涼宮ハルヒを観測してい
ます。長門さんが一人いなくなっても困らないわ」
「違う。お前らのことじゃない。ハルヒのことだ。長門がいなくなったらハルヒが何をする
かわからないぞ」
「果たしてそうかしら? 以前は確かにそうなる可能性も0ではなかったでしょうけど、今
の涼宮ハルヒにはあなたがいる。彼女は現在自分の願望を十分に叶えました。自分の現状に
かなり満足してきています。それにSOS団だってもう彼女にとっては必要ないんじゃない
かしら?」
「ハルヒに言うぞ……」
「何をです?」
「俺はジョン・スミスだってな。そしたらハルヒは何を起こすかわからないだろ?」
 俺は自分の怒りを隠せなかった。痛くなるほど握られた右手の拳が、はっきりと震えてい
るのがわかる。
 今にも飛び掛りそうな自分をなんとか抑えていた。喜緑さんが女性だからかろうじて殴り
かからずにすんでいるだけに過ぎない。
「むしろ、それが出来るのならそうしていただきたいですね。異常な情報爆発を観測する機
会がなくなり、情報統合思念体は手をこまねいています。そして対象の新たな変化を望む声
が増えています。急進派の勢力が増大しているのです。もちろん事を急ぎすぎて情報統合思
念体が消されるようなことがあっては困りますが。それでも現状を無意味に維持するよりは
いいとする意見が増えてきているのです。もしかしたら近日中にこちらから涼宮さんに働き
かける者が現れるかもしれません。もちろんそれはわたし達ではない、新しいヒューマノイ
ド・インターフェイスでしょうけれど」
「ふざけんな! そんなバカな話があるか! 勝手に生み出しておいて、用が済んだら処分
だと!? そんな無責任な親がいるか! 感情を抱えて誰より苦しんでいるのは長門自身だ。
感情も肉体も死の概念も持たない生き物のなんかに、固有の肉体と感情を持つ長門の気持ち
がわかってたまるか!」
「ご心配要りません。わたし達がいなくなると同時に、あなた方の記憶からわたし達に関す
る記憶を消すプログラムも、この強制プログラムの中に含まれています。それからわたし達
が存在していた形跡も、今全てを消去しているところです。……完了しました」
 記憶を消すだって? 無茶苦茶なことをするな、情報統合思念体ってのは。そんなこと俺
はちっとも望んでいない。
 俺が喜緑さんに詰め寄っている間、長門はずっと後ろを向いたまま、ただそこに立ち尽く
していた。
「長門……お前もなんか言ってくれ……。このままじゃお前は……」
「いい」
 長門はこちらに背を向けたまま、小さな声で返事をした。
 街路灯に照らされたその影が、何かに怯えているかのように微かに震えていた。
「ご心配なさらなくとも。すぐにわたし達のことは忘れてしまいますので、その辛い記憶も
なくなります」
「勝手に人の記憶を消すのはやめてくれ!」
「情報連結解除開始──」
 次の瞬間、喜緑さんがためらわずにその呪文を唱え始めた。何を言っているのかわからな
い。音として表現のしようがない。たしかにその音が耳鳴りのように大きな音で聞こえてい
るのに、決して認識できない。
 長門の感じていた、捉えているのに認識できない状態とはこのことだろう。本能的に俺は
理解した。一個の有機生命体として、認識してはいけない単語。
 禁じられた言葉だと──。

 そして耳鳴りの止んだ途端、二人の体が輪郭の端から崩れていった。
「ま、待て!」
 とっさに俺が手を伸ばして長門の腕を掴もうとしたが、するりと砂のように溶けて崩れ落
ちた。
 長門の体がどんどん砂になって空中に分解されていく。粉雪のように軽くなった粒が、風
もないのに何かに運ばれて空のかなたに飛んでいった。
 俺はどうしようもなく、ただみつめていることしか出来なかった。なぜかもう何をしても
無駄だと悟ってしまった。
 最後に長門の頭が消えようとしたとき、長門はようやくこちらを振り返り、一言だけ振り
絞るように小さくつぶやいた。
「あの本を……」
 そして長門は最後の一粒となってこの世から消え去った。
 情報連結の解除。
 つまりそれは、かつての朝倉と同じように、完全なる消滅。死ではない。死体すら残らな
い。この宇宙からの存在の消滅。
 俺は無意識のうちにさっきまで長門のいた空間の上に手をかざしていた。手は自由にその
空間を行き来したが、何にも当たらない。
 本当に何も無い。
 長門が塵となって消えてしまった。
 どこか遠くに行ってしまったのではない。
 死んだのでもない。
 存在そのものが、この宇宙から完全に消え去ったのだった。

 せっかく俺が長門のために買った絵本が、鞄から抜け落ちて寂しそうに地面に転がってい
た。
 足元に散らばっていたはずの長門だった結晶も、いつのまにか跡形もなく消え去っていた。

 だが俺はすぐ思い出した。さっき長門の隣にいた誰かが言っていたことを。
 長門が存在していた記憶も、存在していた形跡も、全て消え去ると。
 じゃあ、なんだ? この俺の心の中にいる長門有希という人物はいったい誰なんだ? こ
の俺の辛く悲しい気持ちはなんだ? 俺たちSOS団の無口キャラ、読書が趣味の無感情宇
宙人の記憶は改竄されたものだっていうのか?
 違う! これは確かに正しい記憶だ。
 その言葉を発した人物のことは思い出せないのに、長門のことだけはしっかりと覚えてい
るのはなぜだ?
 そう、長門は俺の記憶の中にまだ存在しているんだ。
 何かの手違いか、それとも俺の記憶の執念か、長門は俺の記憶から消え去ることはなかっ
た。
 自分の両目から流れ落ちる冷たい雫が、長門の記憶を忘れるなと訴えかけていた。
「絶対に……絶対にここに連れ戻すぞ、長門……」

 上を見上げると暗い空に、無数の星たちが小さく輝きあっていた。全ての星が悲しそうに
見えたのは決して気のせいなんかじゃないはずだ。


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最終更新:2007年01月30日 21:47