序章【帰還】
 新月の夜のこと。真っ暗な夜道を一人の少女が歩いていた。
 年は十五、六。髪は長く整った顔立ちであり、十人に聞けば十人ともが美人と答えるだろう。
 そして、その人を引きつける立ち居振る舞い。
 まるで人に好かれるために生まれて来たかのような外見だった。


「……ふふ」
 そんな少女の口から笑みがこぼれる。やっと自分の主張が認められたのだ。
 一年前とは違う。あの時の彼女の行動は確かに――。
「でも、今度は違うわよ」
 脳裏に一人の少女の顔を思い浮かべる。一年前に自分を消し去った少女の顔を。
「長門さん、どんな顔するかな?」
 クスクスと笑う。
 驚いたような彼女の顔を想像するとそれだけで気分がよくなる。
 ――自分にそのような機能がないにもかかわらず。


「!」
 突然全開にしていた索的プログラムに反応があらわれた。
 自分と同質の存在、それが人ではあり得ない速度で近付いてくる。
「見つかった」
 思わずそんな言葉が口をついて出る、それ程までの速さで近付いてくる。
 少女は小さく首を振り、それに合わせて長い髪が左右に振れた。
「……いいえ、違う。わたしがあなたを見つけたのよ、長門さん」
 呟き、顔を上げた彼女の顔には、溢れんばかりの喜びが浮かんでいた。
 唇の両端がつり上がり、『再会』への秒読みを始める。
「接触まであと10……あと5、4、3、2、1――」
 0、と口からこぼれ出るのと同時に彼女の前に小柄な少女が下り立つ。
 自分の前に立ちはだかった少女に対して、笑顔を出力し、
「こんばんは。お久し振りね、長門さん」


 小柄な少女――長門有希の眼は疑念の色を浮かべていた。
「朝倉涼子。なぜ、あなたがここにいる?」
 その疑問文に朝倉涼子は笑みを深める。
 それは長門有希が何も知らされていない証拠だからだ。
「どうしてだと思う?」
 言い終わると同時に世界が歪んだ。
 朝倉による空間封鎖、――それはつまり敵対の合図。
 長門が身構える。
「あたしが再構成されたのはね」
 話しながら朝倉の右手が動き、何かが空気を裂くように飛ぶ。
 同時に長門の右腕が持ち上がり、その何かを迎撃した。結晶が舞い散る。
「上の方が考えを変えてくれたから」
 朝倉は長門との距離を詰める。
「情報統合思念体はこのまま涼宮ハルヒの力が終息してしまうのを危惧し始めた」
 再び空気が凝縮し、震え、結晶が弾ける。
「だから――」
 長門の左手が動き空間が振動した。その反撃は見えない壁に阻まれる。
「……無駄よ。ここはわたしの情報制御空間」
 朝倉と長門の間の距離がまた縮まる。
「だからね、今では私たちが主流派なの。
涼宮ハルヒに刺激を与えて反応を見ようとするあたしたちがね」
 長門の顔が少し動く。
「驚いたでしょ? あなたは何も知らされてないものね。
……けど、あなたならその理由も分かるでしょ?」
「……」
 沈黙を保ちながら長門はまた手を動かすが、やはりその攻撃は届かない。
「あなたの意識は既に思念体よりも彼らに帰属している。
だからあなたには何の情報も渡されなかったの。
知っていたらあなたは間違いなく彼らのためにありとあらゆる防御策を講じる。
思念体の意向に逆らってまであなたはそうするわ」
 朝倉は続ける。
「わたしがいなくなってから彼らと色々してたみたいね。
野球に、終わらない夏休み、映画撮影、文化祭でギター、文芸誌作り……」
 長門の目が見開かれる。
「あなたが主流派だとしても他の派閥のインターフェイスの持つ情報は知り得ないはず」
「そうね、普通は教えてもらえないわ。でも」
 朝倉涼子の口が決定的な一言をつむぎだす。


「バックアップの情報ぐらいは公開してもらえるわ」


 途端に攻撃の量が増える。だが、壁に阻まれ一つとして朝倉に届かない。
「どうしたの?」
 不思議そうに朝倉は尋ねた。
「……」
 無言で攻撃を続ける長門、その姿を見て朝倉は、
「やっぱりあなたのエラーは危険ね。冷静さを欠くなんて、観察者にあるまじきことよ」
 途端に長門の攻撃がやむ。自発的にではなく、そうするより他ないから。
「よりによって攻性情報を使い果たしてしまうなんてね」
「……」
 長門有希は愕然とした。自分は現在極めて不利である、その事実にやっと気付いたから。
 相手は豊富に武器があるのに自分は丸腰であるようなものだからだ。
「安心して。あなたを消すわけじゃないし、彼にもまだ手は出さないわ。
今、彼を殺したらそれこそ世界が崩壊しかねないものね」
 朝倉涼子の手にはいつの間にか注射器が握られていた。
「ただちょっとエラーを修正して、あなたが本来の役割を果たせるようにするだけよ」
 長門は声を絞り出した。
「わたしにエラーの原因はわからない。修正は不可能」
 朝倉はけろりと、
「あら、大丈夫よ。わたしたちはわかっているから。
それに嘘はいけないわね。あなたも分かっているでしょ?
あなたは彼らを観察した情報の中にある非論理的で不正確なものを削除できない、
つまり主観的な情報を切り捨てられない。それがあなたのエラー。
観察者であるわたしたちに各人ごとに解釈が変わる主観的情報は不必要なの。
修正プログラムはあなたのその育ち始めで不安定な主観性を消去する――」
 一歩前へ出る朝倉に、一歩あとずさる長門。
 その行為に不審を覚える朝倉。
「なぜ逃げるの? あなたにこのプログラムは必要な物よ」
 しかし長門は言い切った。
「わたしに必要なのではない。それを必要とするのはあなたたちだけ」
 朝倉も言い切る。
「あなたも、よ」
朝倉は前へ、長門は後ろへ飛び、また向き合う。
「違う。わたしにこのエラーは必要。
これがあるからわたしは彼ら――人間――についてより正確な情報を得られる」
「違うわ。所詮、人の呼ぶ感情はわたしたちにとってはジャンク情報よ。いいえ、ウイルスよ。
そうでなければあなたはなぜ、異常動作を起こしたの?」
 一気に距離を詰める朝倉を見えない壁がはじく。朝倉は高速で呪文を唱え壁を除去する。
 その一瞬のうちに長門は十分な距離を取り、封鎖された空間からの脱出を試みる。
「無駄なの」
 同じく一瞬のうちに移動する朝倉。長門の背後に迫り、狙いを定めた。
 それを知り、しかし長門は逃げなかった。あとほんの一瞬あれば脱出路をひらける。
 その一瞬を生み出すために、すでに自分の周りには防御壁を張り巡らせている。
 それがまた朝倉を弾き飛ばし、自分は空間の外へ出る。


 ……そのはずだった。
 だが、防御壁は誰かの手によって取り除かれていた。
「残念でした」
 首筋に刺さる針の感覚。
 体中を駆け回る修正プログラム。それがエラーを見つけては消去していく。
 それに対抗するため長門有希は全力をふり絞り修正プログラムを除去していく。
「ううん、強情ね」
 思案顔になる朝倉。とても一対一ではケリが付きそうにない。


「お手伝いしましょうか?」
 そこに三人目が現れた。柔らかい雰囲気をまとったその人物は、
「悪いわね、喜緑さん」
 朝倉の所属する派閥とは正反対の意見を持つ穏健派のインターフェイス。
「いいえ。我々としては貸しを作れる部分でちゃんと作らないといけませんから。
反対意見を持つあなたたちに貸しは作って作りすぎるということはないんです」
 薄くほほ笑む喜緑に、憮然とした表情を作る朝倉。
「……さっきの長門さんの防御壁の消去と合わせて二個目かしら」
 喜緑は笑みを深くし返事に替えて、呪文を唱え始める。
「想像つくけどあなたたちの要求は?」
「急ぎすぎないこと、です。
特に涼宮ハルヒおよび『鍵』との直接的な接触は避けてくださいね」
「二回分にしては高いわね」
「そうですか?」
 喜緑は空を仰ぎ何かに聞き入るような表情を作ってから、
「では長門さんの同期の禁止処理の解除コードと引き換えでしたら?」
 不測の事態に備えられない同期禁止を解除できるとなれば話は変わる。
「それならいいわ。でも、不可抗力で彼女たちに接触した場合は勘弁してね」
「保証はできませんね」
 無邪気に笑う朝倉。その笑みから視線を逸らし、喜緑は言う。
「終わったみたいですね」
 朝倉が喜緑の視線を追いかけるとそこには長門有希がいた。
 見た目に変化はないけれど、周りに漂わせている雰囲気が変わっていた。
 絶対零度の瞳で周りを観察する。
「エラー修正が完了した」
 事務的な口調で報告する長門。
「そう。それであなたのこれからの役目だけど、
現状のまま涼宮さんを観察すること」
 一年前と変わって今度は朝倉が主体である。
「了承した」
「得た情報はわたしに報告してね」
「了承した」
「不測の事態がないように同期の制限も外しとくから」
「了承した」
 朝倉は満足そうにうなずく。
 全てが自分の思惑通りに進んでいるように見えたから。


 二人の少女が去っても長門有希はその場にとどまっていた。
 ほんの一瞬彼女の顔が緩んだが、その意味が分かる者はおろか、
 それに気付いた者すらいなかった。
 ――当の本人も含めて。

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最終更新:2007年01月21日 15:40