休日ということもあって車通りの多い道をさすがに危険なので交通法規を守りながら、急いでいる時に限って待っている時間が長く感じるという人間の曖昧な体感時間にイライラしつつ、全速力でチャリを走らせても結局信号待ちに出くわしたりして何度も舌打ちしていた俺は、ようやっとのことで有希の待っている高級分譲マンションに辿り着き、鍵をかける時間もわずらわしく感じながら愛車を少々乱暴に駐輪所に放置して、駆け足で玄関へと向かいパネルに有希の部屋番号を入力しベルボタンを押した。
『…………』
 来るタイミングが分かっていたのか、それともずっと待機していたのか、一瞬で反応が返ってくる。
「有希、俺だ。待たせてすまない」
『……、入って』
 何かを言いかけて、言いとどまったような雰囲気の声が聞こえてきたが、有希が口にしたのはそれっきりだった。少々気になるが、今はそれよりもすぐに有希の姿を見たい。
 開錠されたドアを俺は即行でくぐってエレベータへと向かう。ボタンを押すと、他に利用する住人がいなくてよかった、すぐにエレベータが降りてきて俺は滑り込んで7階のボタンを押し、指を滑らせるようにして開閉ボタン押してドアを閉じる。
 エレベータが7階まで上昇するのにかかった時間はほんの十数秒程度だったと思うが、その時間すら惜しく俺はだんだんと足踏みをしながら7階に到着するのを待ち、ドアが開いた瞬間にはじかれたように8号室の前まですっ飛んで行った。
 インターホンを押さずに、いつものようにドアをノックする。
 一瞬の間があった後ドアがゆっくりと開かれ、俺は転がり込むように、
「有希――」
 部屋の中に入ったものの、有希の姿が見当たらない。おかしい、ドアはひとりでに開いて――。
「――んむっ!?」
 次の瞬間、俺は横から強い衝撃を受けて玄関の壁にもたれかかる体制でずるずると座り込んだ。
 いや、だがそれはいい。押し倒されことよりも、もっと重要なことは、
「ん、ふ……ちゅ」
 有希が、俺の首にしがみつくようにして俺の唇を、自分の唇で塞いでいた。
 有希。と呼びかけようとしたものの何分唇に強く吸い付かれてるせいで言葉を発することができない。
 何だなんだ。いったいどうしたってんだ?
「んちゅ、ちゅ……んぅ」
 ガチャン、という音がしてゆっくりとドアが閉じられる。密室になったおかげで俺と有希の唇が触れ合う音だけが反射して、やけに大きく聞こえた。
「ちゅ……ん、ちゅく、ちゅる」
 有希は首に回していた腕の位置をずらすと両手で俺の顔をホールドし、舌で俺の唇をこじ開けて自分の舌を絡ませてきた。突然の行動に唖然としていた俺だったが、反射的に自分からも舌を絡ませる。床についていた手をジーンズで軽く拭うと、片手を有希の背中に回して抱き寄せ、もう一方の手を有希の頭に手を添えてその柔らかい髪をそっと撫でた。
「んむ、ぅ……」
 すぐ目の前にある有希の瞼が薄く開かれ、その目が熱っぽく潤んでいるのを見て俺は更に驚いた。そういえばさっきから聞こえてくる有希の声も、何だか今にも泣き出しそうな感じに震えているようにも思える。
 有希はほんの少しだけ眉を下げると――有希が喜んでいる時に見せる表情だ――、また目を閉じて俺とのキスに没頭し始める。
 有希が唇を触れさせる度、舌を絡ませてくる度に、体が痺れていくようだ。
 ほとんど反射的にキスを返しながら、俺にすがりついてくる有希の姿が切なくて、俺は胸が締め付けられるような思いがした。
「ふぅ……、ちゅ、ちゅく……」
 有希は唇と舌を押し付けながら、胸も押し付けるように擦り寄ってくる。
 ふと、有希の頬に一筋の透明な線が引かれたのを見て、心臓が強く跳ねたのを感じた。
「ちゅる、ちゅ……。……ふぁ」
 ようやく、有希は俺の肩に手をついて体重を支えながら唇を離した。繋がっていた透明な橋は、自重に負けてすぐに切れ落ちてしまう。
「はぁ……、は……ぁ」
 今日の有希の様子は、どこかおかしかった。普段なら――いや、普段でもキスしてる時のこいつは何というか色っぽいというか、ええい、それはいいんだが、ここまで乱れるようなことはなかったはずだ。
「は……ふ、ぅ」
 有希はまだ俺の肩に手をついて息を整えている。そして、一つ大きく息を吸い込むと、
「……、…………」
「ゆ……き?」
 唇の端を僅かに持ち上げて、微笑んだ。しかもその目は、誰が見ても分かるくらいに潤んでいる。
「……待っていた」
 今にも消え入りそうな表情のまま、蚊の鳴くような声で有希は、
「あなたを、ずっと」
「有希……」
 そっと頬に手を添えると有希は嬉しそうに目を細め、そのまま眠るように目を閉じて俺の手にその柔らかい頬を摺り寄せてくる。
 もう一方の手を細い腰に回すと、ゆるゆると倒れ込んできてまた俺の首に腕を回す。頭を肩の辺りに預け、今度は頬と頬を摺り合わせてきた。
「……寂しかったのか?」
「…………」
 僅かにゆっくりと縦に揺られる感覚。
「……ごめんな」
「……ん……」
 小さな体を抱き締め、小さな頭を撫でる。髪を指の間に滑らせ、その柔らかい感触を愉しむ。
「…………」
 ふと気がつくと、有希が目を半分ほど開けて俺をじっと見つめていた。他の奴が見たら無表情にしか見えないかもしれないその顔に、俺はちゃんと有希の感情の揺らぎを見出し、それに応えてやる。
「ん……、……ちゅ」
 髪を撫でていた手で有希の頭を引き寄せると、そのまま唇同士を合わせる。触れた瞬間に有希は俺の唇に吸い付き、首に回す腕に力を込めてきた。
「ちゅぅ……ちゅ、ちゅ……」
 だけどその力は弱々しく、多分普通の女の子と同じくらいか、もしかしたらもっと弱いもので、
「ん、ちゅ……ん、ふ」
 小鳥が餌をついばむように、必死で俺の唇を貪るその儚げな姿そのままだった。
 その姿が、どうしようもなく愛おしくて、切なくて、俺は、
「は……む、ちぅ……、ぅ、んぅっ」
 今度は自分から、有希の唇を奪った。
「んく、ちゅ、んぅぅ……」
 有希の体が強張るのを感じたが、俺は構わずに小さな唇に強く吸い付く。舌先で有希の唇をつついてやると、有希は唇を僅かに開いた。俺はすぐにその隙間に自分の舌を差し込む。
「ふ……ぅ、ちる、ちゅ……」
 さっきまで自分から同じことをしていたのが嘘のように、有希はおずおずと舌を差し出してきた。舌先を僅かに触れさせると、俺はすぐに有希の舌を絡めとって容赦なくその小さな口内を蹂躙する。
「ん、く、ちゅ、ちゅる……」
 触れ合った唇から、絡め合った舌から、そして抱き締めた体から、有希の熱が伝わってくる。
 気持ちいい。
 触れ合っている時の心地よさが、キスをするだけで全て快感へと変換される。それは多分、有希も同じだ。
「ちゅ、ん……ふ、ぷぁ」
 唇を触れ合わせている時だけならまだいいが、舌も絡ませているとすぐに息が切れてしまう。限界になった俺はゆっくりと唇を離した。
「……っは……」
 いつも思うことだが、キスをしている時のこいつは本当に幸せそうな顔をする。今もこうやって、俺だけが分かる極上の笑みを浮かべるもんだから――。
「……、……ン……」
 ――ああもう、可愛いやつだなこいつは。と、こうなるわけである。
「……んゃ……ぁ」
 頭を肩口に引き寄せると、有希はまた懐いた猫みたいに頬を摺り寄せてきた。
 ……ちなみに、さっき有希が何て呟いたのかは、教えるつもりはない。
「……ん?」
 また有希の頭を撫でていた俺は、ふと違和感に気がついた。有希の髪から漂う微かな香り。そういえば何だかいつもよりしっとりさらさらなこの感触はもしかして、
「有希、風呂入ったのか?」
「……あなたが来る日だったから」
 ズキューン!
 と、銃かキューピッドの矢かに打ち抜かれたような音がしたのはもちろん俺の頭の中だけである。
 実にいじらしいことこの上ないが、そうなると少しばかり問題が発生するわけで、
「……チャリぶっ飛ばしてきたから汗だくなんだが」
「……問題ない」
 いや、問題あるって。汗臭いって。っていうかそういえばここ玄関じゃないか。汚れるだろ。
「……あなたの汗の匂いは、好き。それに、汚れてもあなたとならかまわない」
 有希、お前はいつから匂いフェチになったんだ。ってそうではなく。
 俺となら汚れてもいいなんてよからぬ想像をしてしまいそうじゃないか。ってそうでもなく。
「せっかく風呂に入ったのに、ええと、もったいないじゃないか」
 そういう問題じゃない気もするが、ここは日本だMOTTAINAI精神だ。
「だから、ほら。離れた方がいいって。そうだ、風呂貸してくれよ。俺もこのままじゃ悪いしさ」
 さっきまで散々絡み合ってたくせにこれだから俺も薄情なものである。ゆっくりゆっくりと俺から体を離した有希は当然寂しそうな顔をしてくれるわけで、
「……浴室を?」
「ああ、シャワーだけでも浴びときたいから……」
「……そう」
 不意に表情を緩めた有希を見て、俺は自分の軽率な言動を後悔することになる。
 ……全ては、計算づくだったのかもしれない。
「…………一緒に?」


 こしゅこしゅこしゅこしゅ……。
 絶妙な力加減で頭皮ごと髪を擦り上げられる。いや、気持ちいいもんだね。自分でやると適当になりがちなんでどうしても洗った後に微妙に痒かったりするんだがこれならそんなことはあるまい。
 それはいいとしてだ。
「なあ、有希」
「なに」
 あらかじめ断っておくが、俺の頭はシャンプーの泡だらけで目が開けられる状態じゃない。そして俺の記憶が正しければ有希はちゃんとバスタオルを体に巻いて浴室に入ったはずだ。はずなんだが。
「さっきから体を押し付けてきてるのはわざとか?」
「…………」
 洗うスピードを上げるのはいいから答えなさい。沈黙は肯定だと偉い先生も言っていたぞ。多分。
「そして身に着けていたはずのバスタオルはどこへやった?」
 さっきから背中に非常によろしい感触を二箇所程感じているのですが、有希さん。
「………………」
 洗うスピードが1.5倍くらいになった。やっぱりか。
「いや、決して悪くはない。むしろ嬉しい。だけどさ、もう少し恥じらいだとかそういう――」
「……………………そう」
「――いや、ええと、ごめんなさい」
 今更何を言っているのだろうか、俺は。むしろいつも有希を辱めてるのは俺の方で――ああいや、何でもない。何でもないぞ。
「…………」
「はぅ」
 断っておくが「はぅ」は俺のセリフである。
 何を思ったのか有希は(俺の推測が正しければ――いやまあ間違いないとは思うが)、一糸纏わぬ姿のまま背中から俺に抱きつき、俺の腕をホールドして抵抗できない状態にしてしまった。
「……何のマネだこれは」
「…………」
 有希と風呂に入ったことは何度かある。が、こんなふうにふざけたり(これが一番正しい表現だと思う)したことはなかった。やっぱり今日のこいつは何かおかしい。
「――っておい!」
「…………」
 どことは言わない。だけどな、それは擦る場所が違いすぎるだろう。位置的に間違えたなんてこともないだろう。わざとだよな。わざとやってるんだよな。お前もなかなか男というものが分かってきたじゃないか。そうさ、お前みたいな可愛い女の子と一緒に裸でいるっていうこの状況でどうにかならない男はそれこそどうにかしてる。そんなわけでお前が触れる前から俺のここは元気一杯だったさ。だけど抵抗できないこの状況でいじることはないんじゃないのか? 言っておくが俺はいじめて君じゃないからな。こんなことで屈すると思ったら大間違いだぞ、有希よ。そりゃあ気持ちよくないと言ったら嘘になる。有希のすべすべした手は触れるだけで気持ちいいんだからこんな急所を責められたんじゃどうしようもない。どうしようもないわけだが、ここで果てたら俺のプライドが廃るわけだ。もしかして勝負か? いつも俺が責める方だから形成を逆転しようと言うのか? 何ならその勝負受けて立とうじゃないか。せっかくだからお前が満足するまで――。
「…………」
 ――などとどうでもいいことを考えていた俺の思考は勢いよく噴出すシャワーの音によってかき消された。シャワーによって自然に流された泡が体に落ちてきて、俺の体はあっという間に泡だらけだ。
 ……実は今の俺は物凄くみっともない格好かもしれない。
 シャンプーが終われば次はもちろんリンスなわけで、再び有希の手の感触が頭でするわけだが、俺のを触った手はちゃんと洗ってくれたんだろうか。
「洗った」
「……そうか」
 リンスをしっかりと髪になじませるように丁寧に動かされる有希の手の感触は気持ちいいのだが、やっぱりまた背中には別のよろしい感触があるわけで、ああもういいや。好きにしてくれ。
「……終わった」
 泡を全部流し終えると有希はタオルで俺の頭を丁寧に拭いて水気を取り、
「次は体」
 さっさとスポンジにボディソープを出して泡立て始めた。
「……なあ」
「なに」
「……いや、何でもない」
「……そう」
 俺の背中を洗い始めた有希は、間違いなく楽しそうで、
「前は自分で洗うんだよな、やっぱ」
「そう」
 俺からしてみれば、いつ笑い出してもおかしくないような声色で言った。
「……お預け」
 ……ふふふ、そうか。まあ何となく分かってたけどな。
 だが有希よ。
「本当に我慢できないのはお前の方なんじゃないのか?」
「…………」
 図星か? 図星なのか?
「…………いじわる」
 ……皆には是非とも、俺を罵倒したり殴ったりする前に、ここで理性を失わなかった俺を褒めてもらいたい。


 この後は洗う係を交代して俺が有希の頭と背中を流してやった。もちろん自分でするような適当なものではなく、有希がしてくれたみたいに丁寧にだ。そして、有希は微妙に不服そうだったが前は自分で洗わせた。前までやったら流石に理性がもたんかもしれんからな。
 で、更にその後は二人で背中合わせに(これはある意味保険だ)湯船につかってぼんやりしていたわけだが、晩ご飯を作ると言って有希は先に出て行ったので今は浴室には俺一人だ。
 しかしまあ。
 いつの間にやらこういうことを普通にやってるわけだから慣れというものは恐ろしいわけである。
 まあそもそも“あの日”に結局ここでいろいろとしてしまったわけだから……今更どうこう言うのは逆におかしい気もするけどな。
「さて……と」
 体の芯まで温まったところでそろそろ風呂を出ようか。さっき作り始めたばかりのようだから、まだ飯はできていないだろう。できるまでずっとつかってるってのも何だしな。
 俺は湯船から上がるとシャワーで軽く汗を流し、洗面所のタオル掛けに掛けてあったしっとりと濡れたバスタオルで適当に体を拭く。
 何で濡れてるかといえば、それはまあ有希が体を拭いたものだったからなわけだが、もはや気にせずにそれを使っている自分がいるのに気付いてやはり慣れというのは恐ろしいものだと思う俺だった。
 ……いい匂いがするのはきっとシャンプーとかだけのせいじゃない。そして俺は決して匂いフェチとかじゃない。
「…………」
 ドライヤーで髪を乾かしながら鏡で自分の姿を確認する。うむ、我ながらあまりルックスがいいとは言いがたい。もしも古泉程度のルックスがあったらナルシストになってしまっていたかもしれない。……いや、決して羨ましくはないぞ。妬ましいが。
 家から持参した下着を身に着けると、その上にパジャマを着込む。これで湯冷めする心配はない。
 一晩泊まるだけなのに下着が二組入っているのは……まあ、そういうことだ。


 さっぱりしたところで洗面所を出ると、食欲をそそる匂いが鼻に届いた。どうやら今日はカレーらしい。
 有希といったらレトルトカレー、レトルトカレーといったら有希、みたいな認識をどこかの誰かさんたちにはされてそうだが、決してカレーと千切りキャベツばっか食ってるわけじゃあない。
 いつかハルヒが言っていたとおり万能選手である有希は料理もお手の物だ。今までろくに料理もしていなかったのはただ単にそうする必要がなかったからであって、有希の手料理が食いたいという俺の半分冗談な提案を頷き一つで快諾してくれた有希は、俺が家にお邪魔する度に手料理を振舞ってくれると、こういうわけだ。
 従って、今有希が作っているであろうカレーももちろんレトルトなんかではない。かと言ってルーから作るような本格的なものでもないが、市販のルーを二種類混ぜたり、タマネギをペースト状になるまで炒めたり、隠し味にリンゴやらハチミツやらヨーグルトやらを入れてみたりといった、お袋がやるようなごく一般的な日本の家庭料理的手作りカレーライスである。
 だがその味のバランスは見事の一言で、スパイスの配合やら野菜、肉の切り方、煮込み方にいたるまで完璧な、食材のオーケストラとでも言うべき素晴らしいカレーは、有希の手作りであるという点を除いても確実に星3つと叫んでみたくなるような究極的仕上がりなわけだ。
 ちなみに、多分料理もいつかのギターみたいな感じで覚えたんだろうなと思ってそれとなく聞いてみたところ、
「……本で勉強している」
「わざわざか? そりゃまた何で」
「……ちゃんと努力して、あなたの喜ぶ顔が見たいから」
 という一連の対話が行われ、当然の帰結として俺は有希を抱き締めたわけだが、まあそれはいい。
 そんなことを思い出しながら台所へと向かった俺は、パジャマにエプロンという何とも微妙ないでたちで料理をしている有希を発見した。いつもなら制服にエプロンで有希がこっちを向いたときにエプロンから覗く生足という男心をくすぐる画が見られるわけだが今回は先に風呂に入ってしまったのでそうもいかなかった。
 まあどの道エプロンをつけて料理をしている有希というのは、少なくとも俺にとっては微笑ましい光景であるわけで、文句などは何一つない。
 そもそもこうして有希が俺だけのために料理をしてくれているという事態は奇跡とすら呼んでもいいほどで、俺は毎回それに感動を覚えるわけである。
「有希」
「…………」
 俺の呼びかけに有希は首だけを僅かに振り向かせる。
「から揚げか?」
「そう」
 有希は小麦粉をまぶした鶏肉を油の入った中華鍋で揚げている最中だった。残りの肉を鍋に放り込むと有希は体をこちらに向ける。
 これは余談だが俺はカレーに鶏肉といえばチキンカツよりから揚げ派である。有希は俺の好みも宇宙的パワーを使わずに研究しているらしく、料理の味はご馳走になる度に俺の好みに近付いており、そんな健気な有希を抱き締めたくなるのは男として当然の衝動なわけだが、揚げ物をしているとなるとそういうわけにもいかず、俺は代わりにそっと有希のまだ乾ききっていない頭に手をおいて髪をくしゃくしゃと撫でた。
「……ん、ふ……」
 何とも艶かしい溜息を小さく吐いて有希はくすぐったそうに目を細める。有希の口元がほんの僅か緩んでいるのを見た俺は、思わず有希の体を抱き締めてしまっていた。
 有希は何も言わず俺に抱かれたままでいる。パチパチという油が立てる音が、まるでショートしちまった俺の頭が立てている音のように聞こえた。
「……雨、降ってたんだな」
「……そう」
 部屋が薄暗くなっているのに気付いて窓の外を見やると、空は曇りポツポツと雨が降り出していた。
「今夜は冷えるかもな」
「…………」
 梅雨が明けたと思っていたらまた雨か。天気予報では晴れるって言ってたのに、アテにならないもんだ。だがまあ、今夜は雨が降っていても文句はない。何故なら、
「夜は、ずっとくっついてられるな」
「…………ん」
 そろそろ暖かくなってきたからあまりくっついているのも辛くなってくる頃だ。まあ有希は体温が低いから暑い日でも俺の方は意外と気持ちよかったりするんだが、有希の方はそうもいかないだろう。
 以前のこいつなら暑いだの寒いだの、そういう不必要な感覚を切ることもできたろうが、今は有希自身がそれを望んではいない。インターフェースとしてではなく、人間としての生活を望んだこいつは、今は情報操作能力とやらを制限し、本当に必要な時以外は使わないようにしている。まあ元々必要な時以外に能力を使うようなことはなかったんだが、今は真実人間と同等の存在になってるってわけだ。
「…………」
 ふと気がつくと有希が何かを言いたげに俺の顔を見上げていた。じっと俺を見つめる子犬みたいな仕草にまた萌えてしまった俺だったが、有希が伝えようとしている何かを受け取らないわけにはいかない。
「どうした?」
 俺が聞くと、有希は少し困ったように、
「……から揚げ」
 ああ……そうか。
「焦げるか?」
「…………」
 僅かに顎を引いて有希が肯定を示した。
「それはまずいな」
 有希の体を名残惜しさを感じながらそっと離すと、有希も少し残念そうな顔をする。頼むからそんな目で見てくれるな。このままではから揚げが焦げるような事態になってしまう。
 だが寂しそうな顔をしている有希を放っておくわけにもいかず、
「手伝おうか?」
「…………」
 とっさに出たその言葉に有希はかくりと頷いて、
「……おねがい」
 俺の目をじっと見つめて呟いたその姿に、俺が激しく萌えたのは言うまでもないことだろうな。


 手伝おうか、とは言ったものの実際俺がしたことと言ったら、有希が皿に盛り付けた料理を居間のちゃぶ台に運ぶことくらいだった。ゆで卵の殻を剥いて、名前は知らないが卵を輪切りにしてくれるという便利道具で輪切りにし、有希が盛り付けたサラダの上に並べたりもしたが、あえてこうして細かく描写するような仕事でもなく、今の時代男も料理くらいできなきゃいかんなと改めて痛感する俺である。
 有希はあの後手早くから揚げを中華鍋から掬い上げるとキッチンペーパーを敷いた皿に盛り付け、すぐさまサラダ作りに取り掛かった。あらかじめ作っておいて、ラップでもかけて冷蔵庫にでも入れておけばいいとは思うのだが、それでは鮮度が落ちてしまうということで、サラダのような生野菜を使ったものは食事の直前に作るのが有希のちょっとしたこだわりのようだった。まあ、普通の家庭でもそんなもんかもしれないが。
 で、俺はカレー鍋の隣で火にかけてあった小鍋から卵を取り出し流水で冷やして、後は先に言ったようなことをしたわけだ。
 から揚げとサラダ、それから深皿に山盛りのカレーライスがちゃぶ台に並べると、俺たちは腰を下ろした。改めて見るとレトルトカレーにキャベツオンリーサラダのみだったあの時と比べるとえらい違いだ。
 朝比奈さんあたりにも是非味わってもらいたいものだ――とは思ったものの、ハルヒは有希が料理上手であることを知っていることから察するに、もしかしたら例のチョコ作りの時に他の料理もやっていて、ハルヒも朝比奈さんも有希の料理の味は知っているのかもしれないな。
「……食べて」
「いただきます」
 いつかのようなやり取りをしてから、俺はまずカレーライスを一口。
「……どう」
「ああ、すげえ美味い」
 有希の手作りカレーを食べるのもけっこう久しぶりだが、やはりとてつもない美味さだ。正直どこぞのカレー専門店なんぞで食うよりも美味い。有希が作ったというのももちろんあるが、それを抜きにしてもこの美味さはハンパない。
「……そう」
 嬉しそうに言ってから(この表情もまたいいんだ、これが)有希は自分のカレーに手をつけた。こいつの食欲は相変わらずで、一度食べ始めるといつ終わるのか分からん。まあこいつは食ってる時はけっこう幸せそうだしモウマンタイだ。
 食事中の有希を眺めてるのもいいもんだが、ずっとそうしてるわけにもいかず俺も負けじと食べ進める。
 ここでまた余談なわけだが、俺が個人的に好きなカレーの食べ方を述べておこう。まずはから揚げとまるのままのゆで卵を用意する。ゆで卵は半熟だとなおいい。それをカレーライスにぶち込み、カレーとご飯と一緒に食す。
 右手でスプーンを持ち、から揚げと卵をカレーライスと一緒に掬い、食す!左手では難しいので諦める!
 そんなわけでハムサラダの上の輪切り卵とは別に、まるのままのゆで卵が一緒に並んでいるわけである。
 ちなみに飲み物は牛乳だ。カレーライスといえば水、というのが基本かもしれないが、実際水は辛いものと一緒に飲むと辛さを抑えるどころか増してしまう。その点牛乳ならば、含まれている乳脂肪が辛味成分を抑える働きをするのでより食が進むという寸法である。
 有希のカレーはまろやかな味わいながらも、若干辛めに作ってあるのでこれは正しい選択だろう。
 もう一つちなみに……飲み物を牛乳にすることを提案してきたのは有希の方だったわけだが、有希が自分の胸の大きさを気にしていることとの因果関係は……多分、ない。
「…………」
「ぬぉ?」
 ふと隣に気配を感じた俺が横を向くと、すぐそこに俺をじっと見つめる有希の姿があって俺は思わず間抜けな声を出してしまった。
「ど、どうした、有希?」
「…………」
 有希はおもむろに箸でから揚げを取り上げると口に含み、顎と頬を可愛らしく動かしながらから揚げを咀嚼し、
「…………ん」
 俺に顔を近づけて目をつぶると、心持ち唇を突き出してきた。
 ……えーと、有希さん? これはあれですか、口移しというやつなんでしょうか?
「…………」
 有希は何も言わず俺の反応を待っている。
 朝の間接キスの件といい、やっぱり今日のこいつはちょっとおかしい。甘えてくれるのは嬉しいのだが、今日のこいつからは焦りと言うか、不安と言うか、ともかくそんな感じのものを感じる。
 だが言うまでもなく有希に甘々な俺が有希の誘い(?)を断れるわけもなく、
「……ん、ちゅ……」
 有希の体をそっと抱き寄せて唇を触れさせた。唇を薄く開いてやると、有希の舌と一緒に有希が咀嚼したから揚げが口に押し込まれる。
「ん……く、ちゅ、んむ……ぅ」
 有希の唾液と絡まり合ったから揚げは妙に甘ったるく、から揚げが全部俺の口に運ばれて、俺の喉を通った後もそのまま俺たちは舌を絡ませ合っていた。
「ちゅる、ちゅ……ちゅ、……ふ、ぅ」
 しばらく互いの唾液を交換し合い、やっと唇を離す。
「……有希よ」
「……なに」
「どこで覚えた、こんなこと」
「……本で読んだ」
 ――ああもう。
「……わたしにも、して」
 ああもう、このえっちな長門有希さんめ!俺もえろいがお前もえろい!それでいいのか!!いいのだ!!
 俺はすぐさまから揚げを口に放り込んで咀嚼し、十分に柔らかくなったと思ったところで、俺を待っているように薄く開かれていた有希の小さな唇をそっと奪った。
「ふ、む……ちゅぅ」
 隙間から舌を挿し込み、から揚げを流し込む。と、同時に有希の舌を絡め取った。
「んぅぅ……ん、ちゅ、こく……ん、く」
 有希の喉が小さく音を立てる。から揚げはとっくに二人の口内からなくなているはずなのに、まだ有希が喉を鳴らす音が聞こえるのは俺の唾液を飲んでいるからだろう。
「ちゅ……ふ、ん、むぐ……ぅ」
 抱き締める力を強めて、唇を押し付けたまま俺は首を少し下向ける。結果的に有希が上を向く形になり、重力によって俺が一方的に唾液を流し込めるという寸法だ。
 ちょっとした悪戯のつもりだったのだが、
「ん、ふ……こく……、ちゅ、ちゅく……こく、ん」
 有希は手強かった。抵抗するどころかまるで何でもないように俺の唾液の侵攻を受け入れている。口の端から飲み切れなかった唾液が垂れているのも気にせずに、有希は俺とのキスに没頭していた。
 ……えーと、俺が言うのもなんだが、今って確か食事中だったよな?
「くぅ……ん、ふ、こく……ん、ぅ……ぷぁ、……は……ぁ?」
 俺が唇を離すと有希は不思議そうに――というか、頬をほんの僅か上気させて酩酊したように目をとろけさせるという何とも艶かしい表情で――俺を見つめてきた。
「えー、と、だな。有希」
「…………なに」
 熱っぽく息を吐きながら聞き返す有希に俺はまたしても暴走しかけたが何とか思いとどまり、
「……飯、食おうか」
「…………そう」
 有希は有希で、そういえばそうだった、みたいな顔をしたもんだから俺は思わず苦笑を漏らしてしまった。
 ……やれやれ。何だか最近二人して段々バカになってきてる気がするぜ。


 結局あの後隣に座ったまま有希が動こうとしなかったため、俺たちは二人なのに隣同士に座って飯を食べるという微妙に珍妙なことをしていたわけだが、このポジションを活かさない手はないとでも思ったのか、スプーンで掬ったカレーライスを俺の顔の前に持ってきて、
「……口を開けて」
 いわゆる“アレ”である。世のバカップルにはお馴染みなのだろうと思われる“アレ”である。そういえば一緒に風呂に入ったことはあるくせに、間接キスだとかいい口移しだとかもっとレベルの低いのをやったことがなかったな。口移しがレベル低いとは言わないが……。
「…………んぁ」
 せっかくだから俺は口をあんぐりと開けてみた。「あーん」などとは間違っても言えない。それはさすがに恥ずかしい。いや、有希がそれを望むというならやぶさかではないのだが、
「…………」
 有希はそれで納得してくれたようでスプーンを俺の口へと運んできた。俺がそいつを口で捕らえると、有希はそれを確認してゆっくりとスプーンを俺の口から抜き取り、
「おいしい?」
 美味いに決まってるだろう。お前の手で俺の口に運ばれた料理は美味さも倍増だ。……ただ、口移しと順番が逆になってる気はするけどな。何となく。
「……わたしも」
 そう言って可愛らしく口を開ける有希。くそう、こいつは何で口を開けた姿まで可愛いんだ。それともこれは俺の主観だからか? 客観的に見ると正直どうなんだ? でもまあここには俺たちしかいないしどうでもいいさ、そんなことは。
「ほれ」
「……ん」
 ぱくっ、という音が聞こえてきそうな感じに有希がスプーンを咥えると、俺はスプーンをゆっくりと有希の口から引き抜いた。
「…………」
 何度か咀嚼した後、有希はカレーライスを喉の奥に流し込む。
「美味いか?」
「……わりと」
「そうか」
 俺の好みに合わせて作っているみたいだから有希が美味いと思っているかどうかは正直なところ分からないが……。
 まあ、こうして嬉しそうにしてる有希を見ると、決してこいつの口に合わないものじゃないんだろうと思うわけで、もしも万が一いつも食ってる有希の料理が有希の口に合わないんだとしたら、有希の好みの味を再現してもらうというのもいいかもな。
 などと思いながら、俺は有希が親鳥が餌を運んでくるのを待ちわびている雛のように開けている口に、掬ったカレーライスを再び運んでやるのだった。


 飯を食い終わり片付けと洗い物も終わり歯磨きも終えた俺たちは、とりあえずまったりしていた。
 何故まったりしているのかというと食後すぐに運動するのは体に悪いからだ。
 何の運動かって? それを訊くのは野暮ってもんだぜ。
「…………」
 有希が本のページをめくる音がする。後は何も聞こえない。
 和む。実に和む時間だ。
 ちなみに今いるのは有希の寝室で、どんな状態かと言うと俺が壁に背を預けて足を投げ出し、有希は俺の投げ出した足の間に同じように足を投げ出して俺の体に背中を預け、俺の腕は有希の腰に回されているってな感じだ。
「…………」
 紙の擦れる音がする。その音が、妙に心地いい。
 何かもうこれだけで幸せだ。
「…………ん」
 俺が顎を有希の肩に置くと有希の体がぴくりと反応した。が、すぐに本を読むことを続行する。
「…………ちゅ」
「……っ」
 何となしに首筋に口を付けると、有希の体がさっきよりも若干大きく跳ねた。
 相変わらず弱いな。
「有希……」
「ぁ……」
 有希の本のページをめくる手が止まるが、俺は構わずに首筋に唇を這わせて、そのまま耳の裏側を舌でちろりと舐めた。
「ふ……ぅ、……だ、め」
 ふるふると小さく震える有希の姿に俺は悪戯心がふつふつと沸き上がってくるのを感じていた。ああ、本当に俺は有希と二人きりだとバカになっちまうんだな、などという自己嫌悪はとうに乗り越えてしまったので今更そんなことは気にしないのが俺である。
「……嫌か?」
 答えは分かっていたが、意地悪してそんなことを聞いてみる。
「いや……じゃ、ない。けど、だめ」
「何で?」
 有希は首を振り向かせて困ったような表情を浮かべ、
「……だめ」
「そうか、それは残念だ」
「あっ」
 口ではそんなことを言っておきながら俺はすかさず有希のパジャマの裾から腕を差し込んで小振りだが形のいい胸に手を添えた。
「…………ん」
「今日はあんまり有希と一緒にいられなかったからな。それに、今夜は冷えるしもっと有希とくっついてたいんだけど……」
「…………」
 有希は困ったように俺を見ているが、抵抗はしない。抵抗しないってことは、こいつにとって今の状況はアクションを起こす必要がないってことであって、それはつまりこいつも俺のことを求めてくれているってことだ。
 ……ま、さっきのセリフは本音半分、建前半分って感じだけどな。
「有希……」
「んぅ」
 ふにふにとした胸の感触を愉しみつつ、をこっちを向いたままの有希の唇にキスをする。ちょっと無理な体勢だが、こういうのも気持ちいい。
「ふ……ちゅ、んぅ」
 少し苦しさを感じながら舌を絡ませる、唇と唇が密着しないため、目を開ければ舌が絡まり合う様子が見えた。
「ん……ちゅぅ。……んっ」
「おぅっ」
 突然有希が俺の腕から逃れ、体を半回転させると俺の首にしがみついてきた。次の瞬間には俺の唇は有希の唇に塞がれており、有希は多少強引に舌を俺の口内に侵入させてくる。
「ちゅ、ちゅる……ふ、ちぅ……」
 思わず目を見開いた俺は、閉じられた有希の目の端がうっすらと濡れているのを発見した。
 ……しまった。またやっちまった。
「ちゅく……ん、んぅ……っは……」
 やっと有希が唇を離す。だけど腕はしっかりと俺の首に巻きつけたままだ。
「……えーと、その、何だ」
「…………」
 有希がじっと俺の目を見つめている。いかん、これは相当キてるな。
「……いや、すまなかった」
「…………」
 謝る俺を、有希は抗議するような目つきで見つめ続け、
「…………………………………………ばか」
 長い沈黙の後に聞こえてきた文句は、甚だ短いものだった。
「あなたは、ずるい」
 やられた。完全にやられた。
「わたしが我慢できないのを知っているのに……」
 もうだめだ。理性が限界です。アドレナリン全開です先生。
「責任、とって」
 俺のラヴシグナル、点灯OK? 本能スイッチON。
「……分かった、お前が満足するまで付き合ってやる」
 ま、元々そのつもりだったんだけどな。
「…………そう」
 有希は俺の言葉を聞くと、ふわりと表情を緩め、
「……………………えっち」
 ほんの少しだけ顔を赤らめて、そう呟いた。
 ……今日の夜は、とても長くなりそうだ。

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最終更新:2020年03月20日 14:56