○エピローグ
 
それから十日ほど後の話になる。俺はいつものように部室の扉を開けた。
「遅いわよキョン! さっさと準備しなさい!」
例によってハルヒの声。はて、準備とは一体何だろうね。
「しらばっくれるつもり? 無駄よ無駄。さ、みんなも準備はいい? 早速行くわよ! 新入生勧誘!」
……そう。今日は新学年始まって三日目。つまり新一年生が今日から平常授業ってわけだ。
俺たちSOS団は全員がめでたく進級し、朝比奈さんは最上級生、他の四人、ハルヒ俺古泉長門は二年生になったってわけだ。
いや、実にあっという間だったなこの一年間は。だからといって何もなかったわけではなく、むしろ俺が今まで生きてきたどの一年よりも濃い、それこそジュースで言えば果汁100%でもまだ効かないような濃密な時間を過ごしてきた。
今だから言える。すべて楽しかった。あぁ、すべてさ。毎日、365日だ。
「す、涼宮さぁ~ん、またこの格好しなきゃいけないんですかぁ~っ!」
朝比奈さんの耳を溶かすような甘い悲鳴が聞こえる。
「当たり前よ! 今年は有希のぶんも買えたからね! これで前年比1.5倍の勧誘率よ!」
単純にバニーガールの数で部に入部する人数が決まるなどと、どこの誰が決めたのだろう。
「決まってるじゃない! あたしよ! あたしの見込みではね、新入生の中に一人は他の世界から来ちゃった生徒とかがいるはずなのよ! 一発で見抜いて連れてきて見せるわ!」
お前が見抜けるならこの百部単位の勧誘チラシはいらないだろうが。俺と古泉だけじゃ飽き足らず、国木田や谷口にまで手伝わせようとしてるってんだから、相変わらず目的と手段に筋が通っていない。まったくな。
「このチラシには不思議募集の告知も書いてあるのをあんたは見なかったわけ? 一年も経ったのにその目は何も大事なところを見れてないのね。遺憾を覚えるったらないわ」
テンションが一年前のあの日に戻りつつあるハルヒであった。大事なものなら見えているさ、今こうしてな。
「さ、ぐずぐずしてたら生徒が帰りだしちゃうわ! さっさと行くわよ! あたしに続きなさい!」
ハルヒは大股で歩きつつ、朝比奈さんを引っ張って部室から出て行く。それにひたひたと続く長門。
「さぁ、僕たちも参りましょう。どんな生徒が現れるのか、僕としても楽しみですよ」
そんな不敵に笑うのはよせ。あぁそうか。お前はこの団に最後に入ったんだもんな。誰かが入部するのを見るのは初めてなわけか。……新入部員、果たして来るんだろうかねぇそんなのが。
「分かっているでしょう? 涼宮さんがどう思っているかくらい、あなたにも」
俺は古泉を見ずに大げさに肩をすくめてみせた。何も言わずともこいつには言葉が伝わっていることだろう。
「行くか。副団長殿」
 
「いやーっ! 今年は大成功だったわね! これならメールは百通単位、入部希望者も数十人規模で殺到するに違いないわ!」
夕方である。俺ははっきり言ってヘトヘトだった。朝比奈さんなどくたーっと長テーブルに伏しておられる。古泉や長門はいつも通りに見えなくもないが、しかしこんなに派手に宣伝するとは思わなかった。しかし巧みに教師連中の魔手を逃れ、ビラを撒き勧誘の言葉をかける様は、警察の取締りから逃れまわる新興宗教の教徒たちと何ら変わらないな。怪しい集団と言えばそのまんまだしな。
このチラシと俺たちを見て、きらきらした新入生達は何を思っただろうか。想像したくなくても震えてしまう。
 
こうして四月の一日がまた終わろうとしていた。まったく慌しいにも程があり、先学期に落ち着いてきていたようなハルヒの活発振りが、ここにきて再び最高値を更新せん勢いであるな。やれやれ。……あ。言っちまったじゃないか。ふぅ。
女子ユニット3名はめいめい着替えを済ませ、部室外で待っていた俺たちと合流して下校する。
四月になった途端やたらと暖かくなり、このままだと夏にはどこまで気温が上昇するのだろうと地球の温暖化具合を懸念する次第だが、まぁ、それもそれとして。
駅前で俺たちは別れ、ハルヒの歩調がやたら元気なことにほっとして、朝比奈さんの今日の心情にシンパシーを覚え、古泉の変わらぬ微笑っぷりに呆れつつ、俺も自宅を目指そうとする。
「……」
長門がこちらをじっと見ていた。……そっか。
「話があるのか?」
長門はこくんと頷いた。俺はその後ろ姿に静かにつき従った。
 
向かったのはそろそろ来た回数も二桁に近付いて来た長門のマンションである。春休みを通してほとんど普通の人が住んでいる空間と変わらなくなっていた。こいつは元に戻さなかったらしいな。
「あなたに礼を言う」
長門は俺を真っすぐに見た。眼鏡を通して。
二日前、眼鏡をかけた長門をひさびさに見たときに、俺はたいそう驚いた。
直後に感じた気配で、確かに元通りの長門であることを俺は悟った。
長門がどうしてふたたび眼鏡をかけたのか。その質問を俺はこいつにしなかった。
分かるような気がしたし、そんなことをわざわざ尋ねるのは野暮だからな。
「ありがとう」
長門は言った。短い言葉とは裏腹に、瞳には渦巻く感情の片鱗が見て取れた。
「俺のほうこそ、ありがとうな」
この数日、俺の心理状態は無意識のうちにぎくしゃくしてしまっていた。
長門が元に戻ったのは、眼鏡をかけるよりもう少し前、あれから二日ほど後のことだ。
何だかんだハルヒは春休みのほとんどをSOS団的活動に費やしやがり、休み中二度目となった市内探索の日のことだった。
着ている服こそ私服だったが、一目見て、俺はこいつが性格の再改変をしたことが分かった。
それから今まで、うまく言葉では表せない、わだかまりのようなものが俺とこいつの間にはあった。
実際、長門のほうを見る回数はこれまでよりずっと減っていたし、長門も俺を気にしないようにしている感じがした。
時間が解決してくれる、などと都合のいいことを思ったりはしなかったが、どうも元の関係に戻るきっかけがつかめなかった。
「わたしはあなたに迷惑をかけた。でもそれは――」
「俺にも言えることだ」
俺は長門の言葉を引き受けた。春になってもまだ溶けなかった氷が、ゆっくりと水になっていく気がした。
長門はうなずいた。
「……」
その時、俺は長門に表情が現れるのを見たように思った。
「長門?」
瞬きすると、長門はやはりいつもの無機質な面持ちでそこにいる。俺の気のせいだったのだろうか?
「喜緑江美里はわたしにこう言った」
長門は静かに俺の耳に声を届けた。
「わたしたちの時間はまだしばらく続く。だからわたしは引き続き観測を続けていい。わたしには、頼りにできる存在が何人かいる」
俺は長門の瞳からこいつの思うところを読み取ろうと試みたが、うまくいかなかった。
「それは、失ってはならない存在」
長門はここで一度言葉を切った。一度、何かを探るようにミリ単位で顎を引くと、平坦な声で、こう言った。
「わたし自身も、あなたたちを失いたくない」
「長門……」
「これからも、わたしをよろしく」
 
さて、俺は翌日、一年のうちでそう何度もないような素晴らしい目覚めを向かえた。
俺をたたき起こしに部屋まで来た妹が、少しがっかりしたような表情をしたのが頭に残っている。
一年前、憮然とした表情で登っていたこの坂道を歩きながら、俺は思う。
続いていくことも、また、変わっていくことも、悪くない。
変わることでいい方向へ向かう事だって、きっとあるのさ。
入部希望者が果たしてSOS団のアジトたる文芸部部室のドアを叩くのかわからないが、どうせなら来てくれたほうが面白いと俺は思う。
俺はもう、これから起こるすべてのことを恐れない。
長門は教えてくれた。意思を持つことと、そうすることの強さを。
「よぉキョン!」
バッシンと谷口に鞄で背中を叩かれた。
「おう、谷口」
「ん、朝っぱらから何ニヤニヤしてんだ? 古泉のマネか? 似てないからやめといたほうがいいぜ」
……笑顔の方は、まだまだ修行不足らしいが、そんなことじゃ俺の気分はちっとも変わらない。
「いや、気持ちのいい朝だと思ってな。こうも気分のいい日はそうそうないぜ」
「ん? お前、長門と分かれたんじゃないのか? 何でそんなに元気なんだよ」
こいつには、休み時間を目一杯使ってこんこんと説教してやる必要があるな。
「理由は教室で聞かせてやるよ。楽しみにしとけ」
「しかしまさか、知ってる奴があんなにたくさん同じクラスになるとは思わなかったぜ」
「まったくだな」
と言いつつ、俺はあのクラス替えの日に名簿を見て、その時だけ笑ってしまっていた。
……やってくれるぜ、ハルヒ。
そうやって自分でツッコミを入れたのを覚えている。
 
どん!
 
「あっ、ごめんなさい! あの、わたし急ぎますから、それじゃ!」
俺と谷口に新入生らしき女子が体当たりをかまし、慌てて謝ると去っていった。
「俺たちも一年前はあんなだったんだな、ピッカピカ」
谷口が先輩面でかっこつけた風に言った。
「あぁ、そうかもな」
たまには同調するのも悪くない。実際、こいつは大切な友達だから……な。
「よし谷口! 校門まで競争して買った方が昼にジュース奢りだ!」
「あん? どうしたんだ急に?」
「行くぜ! レディー、ゴー!」
「ちょっと待てよ! くっそ、負けるもんか!」
ちょっとだけ遅れたが、ようやく新しい学年のスタートを切れそうだ。
あちこちで乱れ飛ぶ桜吹雪をかいくぐりながら、俺は学校の入口を目指した。
 
(おわり)

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最終更新:2020年03月15日 22:36