慶応4年(1868)、睦月(旧暦正月)の頃のことである。
京都より些か南に下った山崎のあたりに広がる、百姓どもの耕す畑の傍らに立つ大きな楡の木の枝に、
一人の少年が吊るされていた。
京都より些か南に下った山崎のあたりに広がる、百姓どもの耕す畑の傍らに立つ大きな楡の木の枝に、
一人の少年が吊るされていた。
私刑である。
この少年はこの辺りの百姓の家に忍び込み、食い物を漁るなどの盗みを働いていたのだ。
少年を捕らえた百姓どもは、激しく少年を折檻し、見せしめに木から吊るした。
司法警察制度が、現代に比べて整ってはいなかった江戸時代においては、
このようなことは別に変ったことでは無い。
少年を捕らえた百姓どもは、激しく少年を折檻し、見せしめに木から吊るした。
司法警察制度が、現代に比べて整ってはいなかった江戸時代においては、
このようなことは別に変ったことでは無い。
吊るされている少年は薄汚いボロボロの格好をしており、年のほどは十二、三であろうか。
変わったことに、そのまだあどけない外見に係わらず、まるで老人のような白髪頭であった。
少年はその足を縛っている縄より抜け出そうと必死に足掻いており、少年が足掻くたびに、
少年の体はまるで風に揺られる蓑虫のように、ぶらん、ぶらんと左右に揺れた。
変わったことに、そのまだあどけない外見に係わらず、まるで老人のような白髪頭であった。
少年はその足を縛っている縄より抜け出そうと必死に足掻いており、少年が足掻くたびに、
少年の体はまるで風に揺られる蓑虫のように、ぶらん、ぶらんと左右に揺れた。
そんな少年に近づく一人の男がいた。着流しのような着物に身を包み、腰に二本を差しおり、
その顔は深編笠でよくは窺えない。男は少年のすぐ傍らまで来ると、その姿をじっと眺めた。
少年もまたその身を揺らすのをやめて男を見返す。折檻されたためか、
血と泥で汚く汚れた少年の顔は凄まじいものがあったが、それ以上に凄まじいのは少年の目であった。
血に汚れた顔から覗くその二つの瞳の中では、まるでこの世の全てを呪うかのような、
ありとあらゆる負の感情、憎、恨、怒、忌、呪、滅、殺、怨・・・凄まじい妄執が充ち溢れ、
渦を巻いていた。それを見て、深編笠の男は薄く笑った。その時であった。
その顔は深編笠でよくは窺えない。男は少年のすぐ傍らまで来ると、その姿をじっと眺めた。
少年もまたその身を揺らすのをやめて男を見返す。折檻されたためか、
血と泥で汚く汚れた少年の顔は凄まじいものがあったが、それ以上に凄まじいのは少年の目であった。
血に汚れた顔から覗くその二つの瞳の中では、まるでこの世の全てを呪うかのような、
ありとあらゆる負の感情、憎、恨、怒、忌、呪、滅、殺、怨・・・凄まじい妄執が充ち溢れ、
渦を巻いていた。それを見て、深編笠の男は薄く笑った。その時であった。
ひゅふ
ちぃん
奇妙な風切り音と、軽い金属音が響いた。
そして、金属音が鳴ったすぐ後に、少年を吊るしていた縄が切れ、少年がふわりと落ちてきた。
深編笠の男は少年を受け止める。
少年は男の手より離れようとしたが、百姓どもの折檻、空腹、疲労などで、すでに体力は限界であり、
それは叶わなかった。
深編笠の男は、今までの光景を呆然と眺めていた百姓の一人の方を向き、言った。
そして、金属音が鳴ったすぐ後に、少年を吊るしていた縄が切れ、少年がふわりと落ちてきた。
深編笠の男は少年を受け止める。
少年は男の手より離れようとしたが、百姓どもの折檻、空腹、疲労などで、すでに体力は限界であり、
それは叶わなかった。
深編笠の男は、今までの光景を呆然と眺めていた百姓の一人の方を向き、言った。
「この餓鬼、いらぬなら貰うぞ」
深編笠の内から覗く、まるで鷹ごとき鋭い視線に気おされて、
その百姓はひぃと情けない声を上げながら肯いた。
男は、少年を抱いたまま、何処ぞへと消えた。
その百姓はひぃと情けない声を上げながら肯いた。
男は、少年を抱いたまま、何処ぞへと消えた。
それから十年後
明治11年、夏、川越(かわごえ)。
かつて、酒井、松平などの譜代の城下町として栄え、小江戸と呼ばれたこの街の一角に、
江戸の初めごろから続く古い剣術道場がある。名を雲竜館(うんりゅうかん)、
伝えし流派は、「金岡虎眼流」という。
かつて、酒井、松平などの譜代の城下町として栄え、小江戸と呼ばれたこの街の一角に、
江戸の初めごろから続く古い剣術道場がある。名を雲竜館(うんりゅうかん)、
伝えし流派は、「金岡虎眼流」という。
その道場屋敷の一室に、一人の初老の男がいた。
年の程、五十の半ほど。長身痩躯。灰色の総髪は肩にかかるほどで、
顔は青白く、頬はこけ、鼻、高く尖っており、目つきは切れ長で鋭く、ある種の猛禽を思わせた。
この男、名を高野鷹堂といい、金岡虎眼流の現継承者である。
鷹堂は行燈の薄い光の灯った薄暗い部屋で、じっと正座をしている。
年の程、五十の半ほど。長身痩躯。灰色の総髪は肩にかかるほどで、
顔は青白く、頬はこけ、鼻、高く尖っており、目つきは切れ長で鋭く、ある種の猛禽を思わせた。
この男、名を高野鷹堂といい、金岡虎眼流の現継承者である。
鷹堂は行燈の薄い光の灯った薄暗い部屋で、じっと正座をしている。
そこに、ふすまを開けて二人の男が入ってきた。
一人は“ざんぎりあたま”の書生風の格好をした優男であり、この道場の厳格な雰囲気には些か似つかわしくない男である。
もう一人はまるで坊主のように頭を短く剃りこんだ大男で、何所となく鯨を思わせる顔立ちをしている。
この男は隻腕であり、右腕の肘より先が無かった。
「巌元(いわもと)、鯨波・・・・・」
「「はっ」」
鷹堂の言葉に、二人が畏まった。
「縁が抜けよった・・・・」
鷹堂はおもむろに言った。
「・・・!」
「昨日より姿が見えぬと思うてはおりましたが・・・」
鷹堂の言葉に二人は驚いたような様子を浮かべる。
「きゃつめ・・・・ついに昔のシガラミを断ち切れなんだ。恐らく、昔の仇を討ちに行ったのだろう」
「いかがいたされますか・・・・」
「奴は、“大目録術許し”でござりましょう・・・」
二人が鷹堂を仰ぎ見て言う。
「恐らく・・・奴は東京へと向かいおった。お前たちはきゃつを追え。連れ戻すことが叶わぬのなら・・・」
鷹堂の両目がかっと見開かれ、瞳孔が猫科動物の如く拡大した。
「斬り捨てても構わん」
「「ははっ、かしこまりました」」
「明朝には出立せよ」
「「ははっ」」
二人は深く頭を下げた。
一人は“ざんぎりあたま”の書生風の格好をした優男であり、この道場の厳格な雰囲気には些か似つかわしくない男である。
もう一人はまるで坊主のように頭を短く剃りこんだ大男で、何所となく鯨を思わせる顔立ちをしている。
この男は隻腕であり、右腕の肘より先が無かった。
「巌元(いわもと)、鯨波・・・・・」
「「はっ」」
鷹堂の言葉に、二人が畏まった。
「縁が抜けよった・・・・」
鷹堂はおもむろに言った。
「・・・!」
「昨日より姿が見えぬと思うてはおりましたが・・・」
鷹堂の言葉に二人は驚いたような様子を浮かべる。
「きゃつめ・・・・ついに昔のシガラミを断ち切れなんだ。恐らく、昔の仇を討ちに行ったのだろう」
「いかがいたされますか・・・・」
「奴は、“大目録術許し”でござりましょう・・・」
二人が鷹堂を仰ぎ見て言う。
「恐らく・・・奴は東京へと向かいおった。お前たちはきゃつを追え。連れ戻すことが叶わぬのなら・・・」
鷹堂の両目がかっと見開かれ、瞳孔が猫科動物の如く拡大した。
「斬り捨てても構わん」
「「ははっ、かしこまりました」」
「明朝には出立せよ」
「「ははっ」」
二人は深く頭を下げた。
月夜を一人の男が駆けていた。
顔は若いが、頭はまるで老人の如く白い。
幼き日より変わらぬ妄執渦巻く目で暗闇を見据え、
夜の道を獣の如く駆け抜ける姿は、
正に幽鬼のそのもであった。